第五準備書面
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平成一〇年(ワ)第七六四、一〇〇〇、一二八二号「らい予防法」違憲国家賠償請求事件
原告 原告番号一ないし四五番 被告 国
一九九九年(平成一一年)四月一五日 右原告ら訴訟代理人 弁護士 徳田靖之・八尋光秀 外一三九名
熊本地方裁判所第三民事部 御中
本件訴訟の基本的な争点は、
- ハンセン病に関する被告国の政策及び措置はいかなるものであったか。
- 右政策及び措置によって原告らはどのような人権侵害・制約を受けたか。
- 原告らが受けた人権侵害・制約は日本国憲法のもとで許されるものであったか。
という点である。本準備書面は、まず右(1)~(3)の点に関するこれまでの原告・被告双方の主張を総括し、併せて本件訴訟の立証の対象を明らかにするものである。
第一 本件訴訟の基本的な争点
一 ハンセン病に関する被告国の政策及び措置
この点についての原告の主張は、訴状第三「被告国による強制収容・終身隔離政策の展開、継続と放置」及び原告準備書面(一)第一「わが国におけるハンセン病政策の歴史」で詳細に述べているところであるが、以下、被告の答弁・主張の問題点を指摘するに必要な限度で繰り返す。
1 法律第一一号「癩予防に関する件」の制定
一九〇七年(明治四〇年)、被告国は法律第一一号「癩予防に関する件」を制定した。一九九六年三月の「らい予防法(新法)」廃止までの八九年間にわたる強制収容・終身隔離政策の始まりである。
被告は、この法律一一号に関し、同法三条一項本文が強制入所の対象としたのはハンセン病患者のうち「療養の途を有せず且つ介護者なきもの」に限定していることから、この法律をもって強制収容・終身隔離政策が始まったとする原告の主張は正確ではない、とする。
この法律が強制入所の対象者を限定していたことは被告主張のとおりであり、その点が後の「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」に比較した場合の大きな特徴ではある。そしてその立法目的としては、いわゆる「浮浪らい」の救護という理念が主張されていたことも確かである。
しかしこの法律によって、一部のハンセン病患者に対してであれ、その患者の意に反しても強制的に療養所に収容できる制度が創設されたことは間違いない。しかも原告準備書面(三)に主張したとおり、この法律一一号制定の議論の出発点はいわゆる「国辱論」にあった。すなわち「浮浪らい」は、救護の対象である以上に、公衆の面前から一掃されるべき風紀取締の対象と考えられたのである。そしてこの法律が実施される段階では、救護という理念は後景に退き、専ら風紀取締上の観点が強調されるようになる。次項で述べる懲戒検束権はそのことを象徴的に示している。
2 懲戒検束権の付与
一九一六年(大正五年)、被告国は法律第一一号の改正を行い、療養所内の秩序維持のために療養所長に懲戒検束権を付与し、療養所内に監禁室を設け、救護ではなく懲罰による統制を行い、強制隔離政策を強化した。
被告はこの点に関し、「当時は療養所内での犯罪・非行対策が問題となっていたところ、これを有効に防止、規律する法的根拠が欠如しており、懲戒検束権は、これに根拠を与えるものであった。懲戒検束権は右のとおり療養所内の秩序維持のために定められたもので、もともと 救護 とは別の目的・性格を有するものであって、救護と対立するものではない」と主張している。
しかし懲戒検束に関する施行細則一〇条一号は「逃走または逃走せんとしたる者」を「七日以内の減食、三〇日以内の監禁に処す」とし、九条一号は「猥りに構外に出、または所定の無毒地に立入たる者」を「三〇日以内の謹慎又は七日以内の減食に処す」と定める。すなわち罰則をもって逃走・無断外出・事務棟立入を禁じたのである。これはまさしく強制隔離政策の強化以外の何物でもない。また「療養の途を有せずかつ救護者なきもの」を入所させながら、「減食」といった非人道的な処罰をもって臨んだのは、法律第一一号制定当時の「救護」という理念が建て前に過ぎなかったことを象徴的に示している。
さらに、この懲戒検束権の特徴は裁判手続なしで刑罰を与えるところにある。収容者の犯罪・非行対策であれば一般社会同様の刑事手続き及び刑罰規定の適用で足りるはずである。敢えて裁判手続なしの懲罰を可能にしたのは、療養所が収容所であることを前提に、所長の権限を絶対のものにし、懲罰権行使による威嚇によって所内の統制を強める目的であった。
一九四七年(昭和二二年)一一月、衆議院厚生委員会で栗生楽泉園の特別監房事件が問題になっているが、東政府委員の答弁によればこの特別監房に監禁された者九二名の平均拘留日数は四〇日間であり、最も長いものは一年半に及んでいる。しかも処分に関する書類があったものは四九件のみである。そして監禁中に死亡したもの一四名、出室当日死亡したもの四名、出室後一ヶ月以内に死亡したもの二名である。一松厚生大臣はこのような状況の是正を約束しつつも「ところが特別病室ができたために、ずいぶん人権蹂躙というそしりもありますけれども、非常に功績をあげておることがある。何かというと、社会秩序がこれによって大分保護された。今までは、らい病患者が何をしても切り捨て御免であるからというので天下に横行したものだ。ところがそんなことをするとお前は草津に送るぞというと草津に送られては困るという。草津という声を聴いてふるえあがって悪いことをせぬということになる。」と述べている。
懲戒検束権がいかに濫用されたか、その発動が被収容者にとっていかに恐ろしいものであったか、これらの国会答弁から明らかである。被収容者は療養所長に生殺与奪の権限を握られ、絶対服従を余儀なくされていったのである。
3 「癩予防法(旧法)」の制定
一九三一年(昭和六年)、被告国は法律第一一号「癩予防に関する件」の大幅改正という形で「癩予防法(旧法)」を制定し、隔離対象を全てのハンセン病患者に拡大し、強制隔離の強化によるハンセン病・患者の根絶を企図した。
この法改正の一番の眼目は、「癩予防に関する件」において「癩患者にして療養の途を有せずかつ救護者なき者」とされていた入所対象者を「癩患者にして病毒伝播の虞あるもの」(第三条一項)として、資力の有無を不問とし、これまで自宅で療養していた患者の隔離を法的に認めることであった。また第二条の二で、患者に対し伝染のおそれのある職業への従事を禁止し(第一項)、病毒に汚染され又はその疑いのあるものの売買・授受を禁止する(第二項)ことができるものとされた。
後に述べるように、ハンセン病の伝染力は極めて弱く、通常の接触では感染しないことは明らかになっていた。したがってこのような従業禁止規定や経済活動の制限は、伝染予防策としては全く医学的根拠を欠くものであり、その本当の狙いは、自立した生活を営み、あるいは営もうとしている患者から生活の手段を奪い、療養所に入所せざるを得ない状況をつくるところにあった。
この改正によって、強制入所の対象者を限定していた「癩予防に関する件」の相対隔離主義は、絶対隔離主義に転換した。
これに先立つ一九三〇年に、内務省衛生局は「癩根絶策」二〇年計画、三〇年計画、五〇年計画を公表していたが、一九三五年には正式に二〇年計画が採用され、翌一九三六年から実施に移された。それに基づいて、地方自治体や民間団体、宗教団体をも巻き込んだ「無癩県運動」が全国的に展開された。
このような相対隔離から絶対隔離への政策転換の背景には、第一次世界大戦後に有力に主張されるようになった優生思想がある。日本国民の質を低下させるような疾病は一掃されるべきであり、ハンセン病の場合には、患者全員が死亡するまで隔離することによって根絶を図るべきだという民族浄化論である。
一九三一年は満州事変、一九三七年廬溝橋事件が勃発し、日本は中国との全面戦争へと突入していく。日本がアジアへの侵略を進めていたこの時期、この民族浄化論が「癩予防法(旧法)」として法制化され、「無癩県運動」として政策展開されていったのである。
4 「らい予防法(新法)」の制定
一九五三年(昭和二八年)、被告国は「らい予防法(新法)」を制定した。この法律は、強制収容・強制診察・秩序維持・従業禁止及び無断外出に対する罰則などの規定を維持し、退所規定を盛り込まないものであり、「癩予防法(旧法)」の絶対隔離体制をそのまま引き継ぐものであった。
なおこれに先立つ一九四九年(昭和二四年)に、厚生省は国立療養所の増床計画を立てている。これは既に一九四七年(昭和二二年)に日本国憲法が施行されていたにもかかわらず、新憲法下でも「癩予防法(旧法)」による絶対隔離政策を維持し、拡大していくことを明らかにしたものである。「らい予防法(新法)」制定の意味は、この厚生省の強制隔離政策の維持・拡大という流れの中で理解されねばならない。
(一) 隔離の対象者について
被告は、準備書面(一)において「らいを伝染させるおそれのあるハンセン病患者」に限り、しかも後述のように「感染のおそれのある時期」に限って、隔離による治療法を選択したことは、隔離されるハンセン病患者の人権を考慮してもなお必要やむを得ないものであったというべきである、としている。あたかも「らい予防法(新法)」が、強制隔離の対象者を限定していたかのような答弁である。
確かに「らい予防法(新法)」第六条は、入所勧奨及び入所命令の対象となるものを「らいを伝染させるおそれがある患者」としている。しかしこれをもってこの「らい予防法(新法)」が、ハンセン病患者を伝染させるおそれのある患者とない患者とに区別し、前者のみを強制隔離の対象者にしたものと解釈することはできない。
何故ならば、「らい予防法(新法)」の国会審議において、山口政府委員は、「らいを伝染させるおそれがある患者」とは「らい菌を証明するか、証明しなくても臨床的にらい菌を保有すると認められる患者、神経肥厚を認める者、肥厚を認めなくても限局されない萎縮まひを認める者」である、としているのである。これはハンセン病の診断基準にほかならない。すなわちハンセン病患者である限り「らいを伝染させるおそれのある患者」の範疇に含まれてしまうことになるのである。
実は前述のように「癩予防法(旧法)」第三条一項も強制隔離の対象者を「癩患者にして病毒伝播の虞あるもの」と表現していた。しかし現実には全てのハンセン病患者が強制隔離の対象とされ、実際に絶対隔離政策が遂行された。すなわちハンセン病であるだけで「病毒伝播の虞あるもの」とみなされたのである。「らい予防法(新法)」の「らいを伝染させるおそれのある患者」という表現は、「癩予防法(旧法)」の「病毒伝播の虞あるもの」という文言を受け継いだものに過ぎない。前述のように「らい予防法(新法)」制定の背景には、国立療養所増床計画に示される厚生省による絶対隔離政策の維持・拡大という姿勢があったのであり、強制隔離の対象者を旧法時代よりも限定しようという考えは全く含まれていなかった。この文言は隔離対象者を限定するためには何の意味もないものだったのである。そしてそのことは現実の運用を見ても明らかである。
(二) 勧奨入所と強制収容との関係
被告は答弁書及び準備書面(一)において、「らい予防法(新法)」が、勧奨による任意入所を原則としており、強制収容はあくまでも例外であることを強調している。
しかし勧奨とはいえ、それに従わない場合には命令という手段があり(同法六条二項)、命令に従わない場合には強制的な入所という手段が予定されている(同条三項)。すなわち勧奨入所が原則で強制収容が例外ということではなく、勧奨↓命令↓強制収容は、患者を強制的に収容するための段取りに過ぎない。
そもそも原告準備書面(一)で述べたとおり、一九〇七年に始まり、一九三〇年代の無癩県運動をピークとした強制隔離政策は、ハンセン病患者が社会内で生活していく基盤を破壊し尽くしていた。特別列車による療養所への連行、患者宅の徹底的な消毒などは公衆の面前で行われてきたのであり、これらを通じて国民のハンセン病に関する偏見は助長され、完全に定着していた。「らい予防法(新法)」制定当時において、入所を勧告されることは、地域社会においてハンセン病患者との烙印を押されることであり、それは療養所に入所する以外に今後生きていく途がないことを意味していたのである。また「らい予防法(新法)」のもとでは在宅・外来治療の途は閉ざされていた。ハンセン病患者が治療を受けるためには、療養所に入所する以外の方法はなかったのである。このような状況の下で、ハンセン病患者たちは勧奨に従い、あるいは勧奨を受ける以前に自ら療養所に入所せざるを得なかった。
どのような形であれ、患者たちは「らい予防法(新法)」を頂点とする被告の絶対隔離政策によって療養所に入所を余儀なくされたのであり、これを「任意」による入所と評価することはできない。
なお被告は、勧奨を受けたにもかかわらずそれに従わずに在宅のままでいたハンセン病患者、あるいは勧奨を受けないまま在宅のままでいたハンセン病患者が相当数いたことをもって、原告の主張を否定している。しかしその在宅の患者たちも、いつ入所命令を受けるか分からないという不安定な状況の下で、住居内の奥深く、あるいは山中、僻地に人目を忍んで生活していたものであり、いわば住居隔離、社会内隔離という状態におかれていたに過ぎない。被告にとっては在宅患者はあくまでも違法な存在だったのであり、そのことは「らい予防法(新法)」廃止までハンセン病の外来治療の途が開かれていなかったことから明らかである。このような制度外的な患者の存在は政策全体の評価に影響を与えるものではない。
さらに言えば、法一五条一項は原則として入所者の外出を禁じており、これに違反した場合、二八条一号により拘留または科料の罰則が加えられるのである。これは強制隔離そのものであるが、この外出禁止が適用されるのは、勧奨によって入所した者か、命令によって入所した者か、強制収容された者かを問わない。一旦療養所に入所したハンセン病患者は、全て自動的に外出の自由を奪われるのである。
勧奨によって入所した者を、任意で入所した者と理解するならば、当然の帰結として、外出も退所も任意にできなければならない。しかし「らい予防法(新法)」はそのような構造にはなっていない。勧奨による入所であれ、命令による入所であれ、実質的には強制収容の一態様に過ぎないという本質は、この法律の構造からも明らかである。
(三) 軽快退所について
「らい予防法(新法)」には退所規定が存在しない。退所規定は「癩予防に関する件」以来一貫して存在しないのであるが、一九三〇年に発表された前述の癩根絶二〇年計画は、「癩患者収容力を一万人となすにおいては、大体において爾後新患者発生防止と逆比例して旧患者死亡するをもって、療養所の患者収容率はますます向上し、いくばくならずして全患者収容の期に達すべし」というものであり、ハンセン病患者は療養所内で死亡することが当然の前提となっている。要するに全てのハンセン病患者を療養所に囲い込み、死ぬまで隔離することによってハンセン病を日本から根絶するというのがこの計画の本質なのである。この計画の翌年である一九三一年に制定された「癩予防法(旧法)」も当然のこととしてこの立場をとっており、軽快退所は全く予定していなかった。「らい予防法(新法)」が退所規定を設けなかったのも、この「癩予防法(旧法)」の考え方を継承したものである。
被告は準備書面(一)において「新法が軽快退所あるいは入院の必要のなくなったものの退所を当然の前提としていたことは明らかである」と主張している。しかも「伝染のおそれがなくなりながら、退所しない者については、法的には、自らの意思で敢えて療養所にとどまっていたものと認められるのであり、これらの者が、およそ他からの行動の自由を奪われ、監禁されていたとは到底いえない」とまで主張している。
荒唐無稽な主張という以外にない。前述のように入所者は罰則によって外出を禁じられており、強制隔離の状態にある。すなわちこの法律は入所者に療養所にとどまることを義務づけているのである。法律上軽快退所が前提であるとするならば、この法律上の義務を解除する手続が必要である。すなわち一体どのような状態を軽快と考えるのか、誰の責任で軽快を判断し退所を認めるのか、法律上明確にされていなければならない。
そういった手続なしで、入所者は自ら「伝染のおそれ」の有無を判断し、なくなったと判断すれば自由に退所してよかったのであろうか。そしてそれをしなかった入所者は、自らの意思で敢えて療養所にとどまったとみなされるべきものなのだろうか。被告の主張はそのような趣旨であるとしか考えられないが、仮にそうであれば、これは現在までに日本のハンセン病政策に関わった者の誰一人として思いつかなかった新解釈であろう。
また被告が一九五七年(昭和三二年)に策定したと主張する「軽快退所基準準則」は、被告の主張によっても、厚生省医務局において「基準案」として作成され、療養所長会議で配布されたというに過ぎない。すなわちあくまでもこれは「基準案」にとどまるものであって、なんら法的な効果を持つものではないし、現実にこの「基準案」に従って適正に軽快退所が認められたというわけでもない。被告は、この存在・内容が「全患協」ニュースに掲載され、患者に周知されることになった、などと主張するが、主張自体失当であることは明らかである。
(四) 在宅治療制度
これまで述べてきた(一)~(三)に密接に関係しているのが、被告が、他の疾病一般に認められる在宅治療制度を、敢えて、全く整備しなかったことである。被告厚生省医務局作成にかかる「国立療養所史(らい編)」には次のような記載がある。
「ひとたびらいと診断された場合、それが伝染のおそれがあるか否かの判断基準は明記されておらず、また実際に 伝染のおそれなし と言われても疾病そのものの治療は必要なはずである。そして治療を受けるためにはどうしてもらい療養所へ入らねばならないのである。このことはかつてBechelliが指摘したように、らいの強制隔離にほかならないのである。」
後述のように、「らい予防法(新法)」が制定された一九五三年当時には、DDSという経口投与薬が登場しており、その治療効果を背景に、国際的には隔離政策から在宅治療政策へ転換しつつあった。ところが被告は在宅治療の条件整備は一切行わなかった。療養所に外来診療を行わせず、またその他の外来診療機関も一切設置しなかった。一九五九年に国民健康保険法が施行され、国民皆保険制度が成立したが、国立らい療養所の入所者はこの法律の適用を除外され、プロミン、DDSを皮切りに次々に登場してきたハンセン病治療薬も保険の適用から外され、療養所に入所する以外、これらの治療薬による化学治療を受けることができなかった。即ち、療養所に入所しない限り、ハンセン病治療を受けられない制度が強化されたのである。
これは「らい予防法(新法)」による絶対隔離政策の下支えにほかならない。なお、先に引用した「国立療養所史(らい編)」は、被告自身が一九八五年(昭和五〇年)編纂したものであり、「「 この書の由来」において「最も信頼できるらいの療養所の正史として後世に残るであろう」と自負しているものである。この文書全体の評価は措くとしても、「療養所に入所しなければ治療ができない状況は強制隔離にほかならない」という認識は、その自負に恥じない正確な認識と言えよう。
5 ハンセン病患者に対する優生政策
療養所内では一九一五年(大正四年)頃から入所者に対する優生手術が行われていた。入所者の所内結婚を許す一方、ハンセン病患者に子孫を残さないという優生政策貫徹のために、優生手術という方法が採用されたのである。
一九四〇年に国民優生法が成立した際には、対象疾患にハンセン病を入れるか否かが議論されたが、ハンセン病が遺伝性の疾患ではないことが理由で結局対象疾患に含まれなかった。しかしこの国民優生法によって法に基づかない優生手術が刑事罰を以て禁止された後も、療養所内での優生手術は続けられた。
原告は被告に対し、国民優生法に基づかない優生手術が行われた事実は存在しないか、と釈明を求めているにもかかわらず、この点については被告は全く釈明をしていない。否定しようのない事実であるからである。
一九四八年(昭和二三年)、旧優生保護法が成立し、これによってハンセン病患者に対する優生手術が「合法化」された。
確かに旧優生保護法においても、優生手術は本人及び配偶者の同意が条件であり、断種・堕胎の強制は許されていなかった。そして被告は、入所者に対する優生手術は法に基づいて適正に行われてきたと主張する。しかしこれは全くの詭弁である。
そもそも療養所内での優生手術は、入所者に結婚を許し、配偶者との同居を許すための条件として採用されたものである。強制隔離の下にあった入所者たちは、療養所内でどのような場所に居住するかも、療養所の統制下にある。配偶者と一緒の生活を許してもらうためには、優生手術を受け入れざるを得なかったのである。これは事実上、優生手術の強制である。被告は「優生手術については、これを結婚等の条件としていない療養所もあり、また優生手術を受けずに結婚して同居生活を行ったものも相当数存在していた」と主張するが、療養所によっては優生手術を結婚の条件としていたところもあるということを認める趣旨と考えられる。原告としては再度被告に釈明を求める。優生手術を結婚や同居の条件とすることは、優生保護法上認められることなのであろうか。
6 まとめ
以上、被告は、一九〇七年の「癩予防に関する件」で国辱論による相対的な強制隔離政策をスタートさせ、一九三一年「癩予防法(旧法)」で、民族浄化論による絶対隔離政策に転じ、一九五三年「らい予防法(新法)」は社会防衛論により、旧法の絶対隔離政策をそのまま承継した。この強制隔離の論拠の変遷の欺瞞性は、原告準備書面(三)で既に述べたとおりである。
そしてこの隔離政策を貫徹するため、被告は従来から社会内に存在したハンセン病に対する差別・偏見を利用しただけではなく、伝染の可能性を誇張し、差別・偏見を拡大・定着させた。さらには絶対隔離政策の反面として、在宅治療の政策化には全く手を付けなかった。こういった被告の政策によってハンセン病患者は社会内で生活する基盤を全て奪われ、療養所に囲い込まれていったのである。
またこのことは「らい予防法(新法)」が廃止された現在においても、社会復帰を妨げている。
八九年間にわたって継続した強制隔離政策の下で、入所者たちは高齢化し、既に平均年齢は七〇歳を超えている。自分の力だけで生きていくのが難しくなっていることは明らかであるが、入所者たちの多くは、政策的に拡大・定着させられた差別・偏見の中で、家族・親族との縁を切ってしまっているし、優生政策によって子孫を残すことを許されなかった。すなわち頼るべき縁者は存在しない。
またハンセン病自体は治癒していても、様々な後遺症は残っている。社会内で体力的に無理をすれば、ハンセン病自体が再発することもあり得る。しかし「らい予防法(新法)」廃止に至るまでハンセン病に対する在宅治療は行われていなかったために、現在でもなお治療体制は整備されておらず、治療を受けるとすれば療養所以外の場所はないのが現状である。
これらの負の条件は、全て被告が政策的に作り上げたものなのである。
二 原告らの受けた人権侵害
原告らの受けた人権侵害については、訴状第四「絶対隔離・断種政策下における人権侵害状況」において既に述べている。またこれらの人権侵害の総体を、「社会内で平穏に生活する権利」の侵害と捉え、原告らの共通損害と理解すべきことも、原告準備書面(二)において既に述べたところである。
被告は準備書面(二)において、原告の損害の主張が抽象的なものに留まり、個別・具体的な損害主張がなされていない旨反論している。しかし原告のこれまでの主張は、原告らが共通して受けた人権侵害として主張しているものであり、総論的なものではあっても決して抽象的なものではない。現時点で既に一二九名にも及ぶ多数の原告の個別損害を主張すべしという被告の態度は訴訟遅延を目的としているとしか考えられない。
本準備書面においては、原告がこれまで主張してきた総論的な人権侵害に対する被告の反論に対する再反論を行う。
1 強制収容について
この点についての被告の反論は、「らい予防法(新法)」においては勧奨による任意入所が原則であり、強制収容は例外である、という点に尽きるようである。「癩予防法(旧法)」時代に、広く強制収容が行われていたことについては何の反論も行われていない。
しかし「らい予防法(新法)」における勧奨入所と強制収容との関係も、本準備書面第一・一・4・(二)で述べたとおりである。勧奨入所は強制収容の一態様に過ぎない。入所させられたこと自体を原告らの人権侵害と理解すべきことは明らかである。またこれと関連して本書面第一・一・4・(四)で述べた在宅治療制度の不整備がある。原告らは療養所に入所しない限り、ハンセン病治療は受けられなかった。このこと自体も原告らが受けた人権侵害と理解すべきである。
2 強制隔離について
この点についての被告の反論は、一九五七年(昭和三二年)の軽快退所基準の策定及び外出制限の事実上の撤廃である。それ以前の時代に関しては反論はない。被告の主張する軽快退所基準をどのように理解すべきかは、本書面第一・一・4・(三)で述べた。この基準は強制隔離の性格を変えるようなものでは全くない。
また外出制限の撤廃については、原告は被告に対し、いかなる制度上の根拠があるのかについて釈明を求めてきたところであるが、この点については何の釈明もない。要するに、被告の主張としても「事実上」の撤廃にとどまるものである。
被告は準備書面(一)において「外出の際に(新法)一五条の許可を受けるとしても、その要件は緩和されてなきに等しくなっていたのみならず、右許可を受けなかったことを理由に刑罰その他不利益処分が科されることは一切なくなっていたのである」と主張するが、「一切なくなっていた」ことを立証できるとは思えないし、仮に立証がなされたとしてもそれは外出制限が法律上解除されたこととは全く異なる。
原告らは外出するにしても、「法を破って外出している」と社会から指弾される危険を背負って外出せねばならなかった。例えば大谷藤郎氏は乙一四号証の中で、一九八三年(昭和五八年)に開催された同氏の著書の出版記念会において療養所在園者が祝辞を述べた際、「らい予防法が現存して外出を禁じているのに医務局長の記念会で公然と演説させるのは行き過ぎではないか」との意見があったことを明らかにしている。
3 秘密漏洩
この点についての被告の反論は、「らい予防法の施行について」(都道府県知事宛公衆衛生局長・医務局長通知)では、秘密保護の徹底のため、特定の都道府県職員にのみ事務に従事させ、十分な知識の教育や職務執行の監督を行うとともに、市町村には事務的援助等の関与を行わせないようにしていたという点、及び検診医、療養所職員、市町村職員について、国家公務員法及び地方公務員法に基づく守秘義務が課せられていたという点の二つである。
原告がここで問題にしているのはそのようなことではない。制度上秘密保護が要請されているにもかかわらず、その実態は、患者の自宅を大袈裟に消毒して隣近所にハンセン病患者の存在を知らしめ、患者を療養所に運ぶ車両に「らい患者用」と大書して世間の目をそばだたせるといったハンセン病予防(しかも医学的に誤った)のキャンペーンめいたものが行われ、患者のプライバシーが全く無視されたものであったということが問題なのである。被告の反論は全く反論になっていない。
4 優生政策について
被告の反論は「旧優生保護法に基づき適正に運用されてきた」というものであるが、それが全くの詭弁であることは、本書面第一・一・5で述べたとおりである。
なおこの優生政策による人権侵害は、実際に優生手術を受けた原告のみが蒙ったものではない。例えばこのような政策がなければごく普通に結婚し、配偶者と同居できたはずのところ、結婚を断念せざるを得なかったという状況もやはりこの優生政策による人権侵害である。原告ら全員が「優生手術を受けることを強要されるような生」「優生手術を受けなければ配偶者と同居できないような生」を生きることを余儀なくされたのである。
5 劣悪な治療及び生活環境並びに強制労働
この点について被告は「療養所内の生活環境の整備については、医学的水準や医療慣行等に基づき、また、国民一般の生活水準を考慮に入れつつ行われてきた」(答弁書)、「各療養所において、療養所の業務等を一部患者が行ってきた事実あるが(いわゆる患者作業)、患者作業を健康保持及び精神慰安と明確に位置付けていた療養所もあるなど、その位置づけについては諸々の考え方があり、いわゆる患者作業そのものが全般的に強制労働的な要素を持っていたとは言えない」(準備書面(一))等と主張している。
しかし現実には、「癩予防に関する件」及び「癩予防法(旧法)」時代は勿論、「らい予防法(新法)」に移行後の相当期間、療養所は入所者に対して職員の数が絶対的に不足しており、患者の労働力なしでは運営していけなかったのが実態であった。患者作業が健康保持や精神慰安と位置付けられていたのは、神山復生病院のような私的な療養所であり、公立・国立の療養所においては療養所運営に不可欠な義務的労働だったのである。懲戒検束規定が存在した当時には、職員の指揮命令に反して患者作業を拒んだ入所者が、栗生楽泉園の特別病室で獄死するといったこともあった。患者作業を拒むことは、入所者にとっては命がけであった。また「らい予防法(新法)」の下では、職員の指揮命令に反したことを理由とする懲戒処分はなくなったとは言え、患者作業を拒絶すれば療養所の機能が停止してしまうのだから、入所者としては指揮命令に従って患者作業に従事する以外の選択肢は事実上与えられていなかった。まさしく強制労働である。
特に、軽症のハンセン病患者が重症の患者の世話をする不自由者付添は当然の義務とされ、包帯交換あるいは注射といった歴然とした医療行為までも軽症者の作業とされていた。なお被告は一九六〇年(昭和三五年)から、この不自由者付添を五年計画で職員作業に移し、そのために二五〇名の新規職員を要したとされる。一九六〇年以前には、不自由者付添は軽症患者が行うことが制度上当然のこととされていたことが明らかである。
そもそも入所者は全てハンセン病患者とされた者なのである。軽症であるとしても末梢神経障害を持っており、病気の特徴として四肢に外傷を負いやすく、しかも治癒しにくい。軽症だった入所者の大半は、患者作業の過程で、末梢の外傷から重篤な感染をきたし、四肢や手指、足指を切断したり、機能を全廃するなどの重篤な後遺症を負うに至ったのであり、そのことも社会復帰を妨げる大きな要因になっているのである。治療を受けるべく入所した療養所において、その入所の故に重篤な障害を負うという背理にこそ、ハンセン病療養所が強制収容所にほかならなかったという事実を端的に示している。
また重症者としても本来は専門の職員による介護、医療が保障されるべきであり、それを素人の軽症者によって代替されるような不利益を蒙る理由はない。
軽症者が重症者の介護、医療に携わるといった生活環境・医療条件が、軽症者にとっても重症者にとっても劣悪であることは論を待たない。そんな医療水準や医療慣行はあり得ない。
6 懲戒による人権侵害
この点について被告は、「らい予防法の施行について」(厚生省事務次官通知)により複数の職員で構成する会議に諮って懲戒処分をすることにされているなど、右処分は厳正に、また謙抑的な手続を経て課されるものとなっていた、と反論する。
原告が主として問題にしている「懲戒検束規定」及び「癩予防法(旧法)」下での懲戒処分については何の反論もない。
なおこの人権侵害もまた、実際に懲戒処分を受けた者のみに対する人権侵害ではない。原告らは療養所内にいる限り、この懲戒による威嚇の下にあったのであり、そのこと自体が人権侵害である。また「懲戒検束規定」及び「癩予防法(旧法)」の下での懲戒処分の歴史は、「らい予防法(新法)」の下での懲戒による威嚇効果を強めるものとして生き続けたのである。
7 偏見・差別の助長、名誉毀損・侮辱、社会とのつながりの切断
被告は、ハンセン病に対する正しい理解の普及を含め、適正に法を執行してきたものであり、被告による法の執行が「恐怖宣伝」となったことはないと反論する。
被告の「ハンセン病に対する正しい理解」とは一体いかなるものであろうか。強制隔離政策の下で被告が普及したハンセン病像とは、それがいかに恐ろしい伝染病であるかということであり、患者はすべからく療養所に入所すべしというものに尽きる。しかも本書面第一・二・3で述べたとおり、患者の入所にあたっては、自宅を大袈裟に消毒し、車両に「らい患者用」と大書するなど、医学的には全く不必要な処置が行われ、それはハンセン病の伝染性のキャンペーンの役割を果たした。このような伝染性の誤った強調が、偏見・差別を助長し、社会とのつながりを切断したのである。これを是正するような、本当の意味での「正しい理解」の普及は、未だ行われていない。
8 一九七八年(昭和五三年)以降の人権侵害
被告は一九七八年以降人権侵害を行っていないと主張し、原告もこれを争っていない旨述べているが、これは全くの誤りである。
昭和五三年以降も不作為による強制隔離政策・措置は継続していたのである。被告の強制隔離政策・措置は、(1)入所強制、外出制限規定の存在・実施、退所規定の不存在、(2)外来診療制度の不整備、(3)差別・偏見の作出・助長・放置という主として三つの手段によって行われた。被告が一九七八年以降行っていないと主張しているのは、このうち(1)の手段が空文化していたというに過ぎない。強制隔離政策・措置を廃止したというためには、(2)及び(3)についても対策を講じなければならないことは当然である。
加えて、隔離措置がある程度の期間を超えると自力・独力による社会復帰は通常不可能となるため、特段の社会復帰支援策が必要である。
被告が先行する人権侵害により原告らに負っていた原状回復措置及び義務は右の全てである。被告がこれらの現状回復措置を全て実施しない限り、原告らの人権は侵害されたままである。
したがって一九七八年以降も、被告の不作為により、原告らの人権侵害は継続し、放置されていたと言うべきである。
一九九六年(平成八年)四月、被告は「らい予防法(新法)」を廃止し、同法の見直しが遅れ、放置されてきたことなどにより長年にわたりハンセン病患者・家族の尊厳を傷つけ多くの痛みと苦しみを与えたことについて深く遺憾の意を表した。「らい予防法(新法)」廃止に伴って行われることとなった施策は、以下のようなものである。
- 国立ハンセン療養所入所者が高齢であること、長期にわたり療養所に入所していたため社会復帰が困難であることなど特別な状況に鑑み、必要な療養や福祉の措置を継続することとした(らい予防法の廃止に関する法律二~四条、六条、衆議院厚生委員会附帯決議一項、参議院厚生委員会附帯決議一項)。
- 被告は、入所者等に対してその社会復帰に資するために必要な知識及び技能を与えるための措置を講ずることができるものとされ(同法五条)、ハンセン病療養所から退所することを希望する者については社会復帰が円滑に行われ今後の社会生活に不安がないようその支援策の充実を図ることについて特段の配慮をもって適切な措置を講ずるべきことを認め(前記衆参院附帯決議各二項)、一九九八年三月「社会復帰支援事業実施要綱」を公表した。
- ハンセン病は「一般の疾患」として扱われ、新規のハンセン病患者については、保険診療の対象として一般医療機関で診療が行われることとなった(前記参院附帯決議三項)。
- 法律において使用されていた「らい」の語を「ハンセン病」へと改正するとともに(同法二条以下)、一般の市民対してまた学校教育の中でハンセン病に対する正しい知識の普及啓発に努めハンセン病に対する差別や偏見の解消についてさらに一層の努力をすることについて特段の配慮を講ずるべきであることを認め(前記衆院附帯決議三項、参院附帯決議四項)、平成一一年度より「啓発普及活動」及び「地域啓発推進事業」を開始する。
以上(ア)~(エ)の施策は、極めて不充分なものではあるが、被告の強制隔離及び措置が、(1)入所強制、外出制限規定の存在・実施、退所規定の不存在といった直接的な強制措置のみならず、(2)外来診療制度の不整備、及び(3)差別・偏見の作出・助長・放置による社会生活基盤の破壊といった間接的かつ事実上の強制手段により補完されつつ展開されたことに照応している。
前述したとおり、被告はこのうちの①について一九六〇年~一九七八年以降について、法の弾力的運用及び処遇改善を実施したと主張しているのに過ぎないのであって、これが先行する人権回復措置として全く不充分であったことは、現在行うこととされている(ア)~(エ)の施策に照らしても明らかである。
前掲「国立療養所史(らい編)」も次のとおり述べている。
「わが国のらい対策は、治らい剤の効果が確認された一九五〇年代に至るまで絶対隔離が基本になっていた。もっともこの基本については現在もなお本質的には改められていない。」(五五頁)
「らい療養所の現状は、社会復帰の目標を明確には設定していないために、リハビリテーションの各過程における個々の治療効果としてしか評価されていない。」(五九頁)
「らいの社会復帰を阻害する最大の因子は偏見であり、この偏見を支える一つがらい療養所の存在であることに疑いはない。らいのリハビリテーションは、外来診療をらい対策の基本としたときに、はじめて評価が可能とされるゆえんであろう。」(同)
よって、一九七八年以降も被告の不作為による人権侵害は継続していたのであり、同年以降人権侵害がなかったとか、この点について原告が争っていないとの被告の主張は全くの誤りである。
三 原告らの受けた人権侵害は日本国憲法の下で許容されるものか
日本国憲法の下では、公権力による人権侵害は必要最小限度のものにとどまるべきものであることは言うまでもない。特に原告らの受けた人権侵害の中心は、幸福追求権、人身の自由、居住・移転の自由等という最も基本的な人権であり、この人権の制約が許されるためには、その制約の目的が正当であるか、その目的を達成することと人権制約との間に合理的関連性があるのか、目的達成のために他のより制限的でない手段が存在しないかということが厳格に問われねばならない。
1 強制隔離について
原告らの受けた人権侵害は多岐にわたるが、その根幹は強制隔離にある。強制隔離の目的がハンセン病予防にあったとすれば、その目的と強制隔離との間に合理的な関連性があったのか、その目的を達成するために他のより制限的でない手段は存在しなかったのか、ということがここでの問題である。
(一) ハンセン病の伝染力と隔離の有効性・必要性
ハンセン病を引き起こすらい菌は感染力及び発病力がいずれも弱く、ほとんどの人に対して病原性を持たない。人の体内にらい菌が侵入し、感染が成立しても、発病することは極めて稀である。したがって伝染予防のために強制隔離を行う医学的理由は、はじめから存在しなかった。すなわちハンセン病予防という目的と、強制隔離という手段との間に合理的関連性はなかったのである。
これに対して被告は、ハンセン病の伝染性が弱いことは一九五三年(昭和二八年)当時の知見としては認める、と答弁している。しかしハンセン病の伝染性が弱いことは、らい菌が発見され、ハンセン病が一種の伝染病(細菌感染症)であることが医学的知見となった一九世紀末から知られていたことである。だからこそらい菌発見以前には遺伝性の疾患であると信じられていたし、らい菌発見後も細菌感染症であるとの知見が確立するまでには相当期間が必要であったのである。すなわち一九〇七年に「癩予防に関する件」が制定された当時から、ハンセン病の伝染性の弱さは明らかなこととされていた。原告側準備書面(一)で引用した、当時の内務省衛生局長窪田静太郎もこの知見を前提としているのである。
また被告はこの伝染性について「個々の感染経路は不明であったものの、直接人から人へと伝染することは明らかであった」(答弁書)、「ハンセン病の感染力及び発病力を正しく評価するためには、個別の感染経路や機序等についても医学的な評価が必要であるところ、右経路や機序は必ずしも明らかではなく」(準備書面(一))と述べている。人から人へ伝染するのがどの程度の頻度であるのか、それを防止するのに隔離が本当に有効であるのか、という問題は、まさに伝染予防のために隔離が有効であるか否かという議論の出発点であろう。そこで個々の感染経路や機序が不明であるとするならば、隔離の有効性に関する医学的根拠自体が曖昧であったというほかない。
(二) ハンセン病予防に関する国際的知見と隔離の必要性
被告は一九五二年(昭和二七年)のWHOらい専門委員会報告(乙二二号証)は、ハンセン病の管理として伝染性の症例について隔離を認めている、と主張する。しかしこの報告全体の趣旨としてはむしろ強制隔離に対しては否定的であり、少なくとも「らい予防法(新法)」制定を正当化するような性質のものではない。以下、この報告の要点を挙げる。
この報告には確かに「理論的には伝染性のある症例を隔離することは効果がある」という趣旨の文言はある。しかしそれは「理論的には効果があるが、実際には好ましくない」と続くのであって、本当の論旨はむしろ隔離否定説に近い。その理由は「実際には多くの症例はらいと診断され、隔離される数年前というものは他人に対して伝染性を持っていたもの」であり、「患者の強制隔離への恐怖は、患者をしてますますできるだけ長い間一般社会に隠れていようとさせるもので、それが皮肉にも患者への治癒が可能である期間、隠れている様な結果」になり、ひいては「接触者に対してかえって危険をもたらす」からである。このことは報告に明言されている。隔離される側の人権の問題を抜きにして、純粋に社会防衛的な観点から考えても、隔離は有効とは言えないのである。
またこの報告は、隔離に関して「適当な症例を選んで、これを行い、又患者によく話して説得を行い、効果的な治療を併せ行うならば、らい行政について、これはなお有用な意味を残しているのである」と述べる。しかしここで有用であるとされているのは「隔離」についてであって、「強制隔離」についでではないことに注意すべきである。ここでいう「隔離」は原文ではIsolationであり、むしろ「分離」と翻訳するのが正しい。特別の施設ではなく、家庭内で他人との接触を避ける場合にもDomiciliary isolationという言葉(訳文では「住居隔離」と翻訳されている)が使われており、「らい予防法(新法)」によって行われた療養所への強制隔離とはかなり異なる概念である。
なお「伝染性の症例のみ隔離の形式に従う必要がある」という文章もあるが、これは「非伝染性の症例を隔離すべきではない」という意味であり、伝染性の症例を隔離すべきであるという趣旨ではない。
「強制隔離(原文ではConpulsory isolation)」については、この報告には「必要な時、可能なときはいつでも適用するために強制隔離の法的の力を残しておくことは、保健当局にとって得策である」という文章があり、被告も準備書面(一)でこれを引用している。しかしこの文章は「らいが高度に流行しているが」という地域的な限定があるのであって、その文脈を無視して解釈することはできない。さらにはこの報告の「施薬所」を説明している部分においては、「らいの流行の少ないところでは特別のものは必要なく、一定の保健管理を行う保健所で間に合う」としている。その部分との繋がりからしても、ハンセン病が特に流行している地域でない限り、強制隔離は必要ないという意味に解釈すべきことは明らかであろう。「らい予防法(新法)」が制定された当時、日本にハンセン病が流行していたような事実はない。それどころか、原告が度々主張しているように、日本のハンセン病は、新法制定以前に、疫学的終焉に向かっていたのである。このWHO報告は「らい予防法(新法)」の強制隔離政策を正当化するようなものではない。
なお乙二二号証の訳文ではConpulsory isolationを「強制隔離」と翻訳しているのであるが、これも「強制分離」と翻訳するのが正しい。
以上のとおり、被告が自らの主張を裏付けるものとして引用したものでさえ、被告の主張を否定している。事実としては、前述のようにハンセン病が細菌感染症であるという医学的知見が確立して以降、予防に関する隔離の有効性が主張された時代はあったものの、それはあくまでも伝染性の強い患者の相対隔離であって、「癩予防法(旧法)」及び「らい予防法(新法)」のような絶対隔離主義が正しいとされたことことはなかった。そして「らい予防法(新法)」制定当時においては、次項に述べるような治療法の発展を背景にして、相対隔離でさえもその有効性が疑問視されていたというのが国際的な知見だったのである。
(三) ハンセン病治療に関する国際的知見と隔離の必要性
被告は、準備書面(一)において、「らい予防法(新法)」が制定された当時の知見として、一度罹患すれば重篤な症状を呈し、確実な治療方法が確立されていなかったため、感染予防の必要性が極めて強かったと主張している。
確かに、重篤でしかも治療法が存在しない疾患の場合、政策的には予防に重点がおかれるべきであろう。しかしこの被告の主張は本当であろうか。
実は被告が引用している前述の一九五二年のWHO報告は「現代のらい治療は、患者の伝染性を効果的に減少せしめ、患者を非伝染性に変えてしまう。それ故にこのらい治療というものはらい管理に現在最も有力な適した武器として好んで利用されているのである。治療は初期の患者に行ったときに一層効果的である。このことはらい管理にあたって心に銘記しておくべきことである。」と述べている。すなわち、原告が度々主張しているとおり、一九四三年に発見されたプロミンは、ハンセン病の特効薬として各国でめざましい効果を上げていた。そして一九四七年頃からはプロミンの有効成分であるDDSが経口投与剤として使用されはじめ、経口投与という特性から在宅・外来通院治療が可能となった。前述のとおり、一九五二年当時は既に隔離主義は国際的には後退していたが、その最も大きな背景となっていたのは、このプロミン及びDDSの治療効果である。被告の主張は、少なくとも「らい予防法(新法)」制定当時の医学的知見としては不適当である。
また被告は答弁書及び準備書面(一)において、プロミン及びDDSの治療効果には限界があることを強調し、医学的に隔離不要との考え方が定着するようになったのは、一九八一年(昭和五六年)にWHOが多剤併用療法(MDT)を提唱して以降のことであると主張する。
しかし実際には前述の一九五二年WHO報告でも、隔離の有効性は疑問視されていたし、一九五三年の第六会国際らい学会でもDDSの有効性と、DDSを使用しての在宅治療の可能性が強調され、一九五六年のローマ会議では、ハンセン病が伝染性が弱くしかも治癒しうる疾病であるとして「ハンセン病患者にはいかなる特別法も適用すべきではなく、全ての差別法は廃止されるべきである」との決議が採択されるに至ったのである。
原告は、プロミンあるいはDDS単剤治療と比較した場合、MDTによる治療効果が優れていることを争うものではない。しかし国際的に見た場合にハンセン病対策を隔離から在宅治療へ変化させたのは、MDTの治療効果ではなく、プロミン及びDDSのそれであった。被告の主張は、プロミン及びDDSが国際的なハンセン病対策に与えた影響を故意に過小評価するものであり、事実に反するものである。
実は、このプロミンの治療効果及びそれがハンセン病対策に与える影響については被告も充分認識していた。それは一九四八年(昭和二三年)の衆議院厚生委員会における東龍太郎政府委員の以下の答弁からも明らかである。
「幸いに、この患者が一日千秋の思いでおりますプロミンの製剤は、国内において生産されるように相なりましたし、またプロミンよりも一歩進みましたプロミゾールも最近その生産ができて、そのサンプルを数日前私どももいただいております。・・・私どもがもし充分な予算を獲得することができましたならば、らい患者の全部に対してこの進んだ治療薬による治療を与えることができる、その日の遠からざることを私は信じておるのでありまして、らいというものは普通の社会から締め出して、いわゆる隔離をして、結局隔離をしたままでらい療養所に一生を送らせるのだというふうな考えではなく、らい療養所は治療をするところである、らい療養所に入って治療を受けて、再び世の中に活動しうる人がその中に何人か、あるいは何百人かあり得るというようなことを目標とした、らいに対する根本対策・らいのいわゆる根絶策といいますか、全部死に絶えるのを待つ五〇年対策というのではなく、これを治療することを目標としておるらい対策というようなものを立てるべきじゃないかと、私ども考えております。」
一方、被告が強調するMDTは、それが提唱された一九八一年当時、日本におけるハンセン病新患者の年間発生数は四〇人以下となっており、療養所の入所者にも既にMDTによる治療が必要な患者は少なかったため、日本のハンセン病治療には浸透しなかった。
つまり国際的に見ても、日本においても、ハンセン病治療を質的に変化させた画期的な治療法と言えば、プロミン及びDDSによるものであって、決してMDTではないのである。
なお前掲の「国立療養所史(らい編)」にも次のような記載がある。「らいの治療は大風子油の時代と、それ以後の時代に区分できる。大風子油の時代は、らいが『不治の病』と人々から認識されていたのであるが、この時代は実に長かった。昭和二一年にわが国ではじめてプロミンが用いられ、らいに著しい効果を上げた。らいは『可治の病』になった。スルフォン剤の出現によって、らいでは、まるで長いトンネルから抜け出したような、まぶしいほどの転換期があった。」
これが被告厚生省の編纂した「最も信頼できるらい療養所の正史」におけるプロミン及びDDSの治療効果に対する評価である。被告の主張は、国際的な知見に反するだけではなく、自ら編纂した正史にも反するものである。
勿論、重篤であろうと、治療が容易であろうと、人権を犠牲にしないで予防できるものは予防するに越したことはない。つまりこの問題は、ハンセン病の予防に強制隔離という手段が有効なものであったか否か、患者の人権を犠牲にせねばならないほどに必要やむを得ないものであったのかという問題に帰着する。ハンセン病の予防に隔離が有効であったかということ自体医学的に疑問であること、ハンセン病の伝染性が極めて弱く、強制隔離といった極端な政策をもって臨むような性質のものではなかったことは既に述べたとおりである。
(四) 入院治療の必要性と強制隔離の必要性
被告は、新法制定当時は、外科的治療や全身管理を要する患者が多く、またプロミンによる治療は症状に応じた相当の医学的管理下で行うべき治療法と考えられており、現実問題としてハンセン病患者に対する在宅治療は困難であった、と主張する(準備書面(一))。入院治療が必要だから強制隔離政策を続けるべきだったとでも言う趣旨であろうか。原告も、入院治療が必要であった重症のハンセン病患者が存在したことに異論はない。プロミンは静脈注射用の薬であり、経口投与による化学療法が普及するのはDDSが登場してからのことである。その意味でも、化学療法目的の入院治療が望ましい例があったことは確かである。しかし何故その入院が強制隔離という形でしか行われなかったのか、ということが問題なのである。
治療は本来的には患者本人の利益のために行うことであり(それは他者への感染を防ぐという意味で予防という観点からも有効であるが)、「強制」する必要はない。ハンセン病の治療に入院が必要だから、それを政策的に行うべきであるとすれば、まずはハンセン病の療養施設を整備し、経済的弱者であっても憂い無く治療に専念できるよう、政策的に治療費の免除及び療養中の生活費の援助を行えばその目的は達することができたはずである。被告の議論は入院治療の必要性と隔離の必要性とをすり替えたごまかしである。
しかも「らい予防法(新法)」が強制隔離の対象者としたのは重症者(入院治療の必要のある患者)だけではない。本書面第一・一・4・(一)でも述べたとおり「らいを伝染させるおそれのある患者」という限定は全くのお飾りに過ぎず、実際には「癩予防法(旧法)」の絶対隔離主義を継承して、全てのハンセン病患者が強制隔離の対象とされたのである。入院治療の必要性などは立法過程においても、現実の入所にあっても議論されたことはない。
さらにDDSの登場によって在宅での化学療法が可能になった時代においても、「らい予防法(新法)」は強制隔離の立場を変えなかった。本書面第一・一・4・(四)で述べたとおり、在宅治療機関は設置せず、ハンセン病治療薬に保険を適用せず、療養所に入所しなければハンセン病治療が受けられない政策を継続したのである。
すなわち「らい予防法(新法)」は、患者にとって入院治療が必要であるかどうかという問題とは全く無関係に制定され、全く無関係に存在し続けたと言える。入院治療の必要性が、「らい予防法(新法)」を正当化するものではないことはこのことからも明らかである。
(五) ハンセン病の疫学的終焉と強制隔離の必要性
原告は、日本のハンセン病は隔離とは無関係に疫学的終焉に向かっており、「癩予防法(旧法)」も不必要であったと主張している。
これに対して、被告は、現時点から見た「結果論」としては、「らい予防法(新法)」制定以前から、ハンセン病は疫学的に終焉に向かっていたことを認めている(準備書面(一))。
新法制定以前から疫学的に終焉に向かっていたことが、最近になって判明したという趣旨であろうか。新法制定以前の疫学的統計資料が、最近になって発見されたわけではないのであり、この事実は当然のことながら新法制定以前に分かっていたことである。そのことは日本らい学会の見解からも明らかであるし、また厚生省自身、従来は認めていたことでもある。少なくとも「らい予防法(新法)」が疫学的観点からも不必要であったことは、被告の主張からも明らかになったと言える。
(六) 結論
前述のとおり、国民の基本的人権を保障した日本国憲法の下で強制隔離という極度の人権の制約が許されるためには、その制約の目的が正当であるか、目的と手段との間に合理的関連性があるのか、他のより制限的でない手段が存在しないかということが厳格に問われねばならない。
ハンセン病予防という目的からするならば、その伝染性の弱さからして一九〇七年の「癩予防に関する件」制定当時から既に、強制隔離が必要であったとは言えない。しかも一九五三年の「らい予防法(新法)」制定当時においては、ハンセン病予防における隔離の有効性自体が疑問であった。すなわち目的と手段との合理的関連性の次元において既に不当な人権侵害であったと言える。
ハンセン病予防のためには、強制隔離を廃止し、単に治療環境を整備すると言った全く人権制約を伴わない手段で十分であった。むしろその方がハンセン病予防に有効であった可能性もある。すなわち目的と手段との間に一応の合理的関連性が認められるという考え方をとったにしても、より人権に制限的でない他の手段が存在したのである。
あらゆる観点から見て、このような強制隔離が日本国憲法の下で許される根拠は存在しない。したがって一九四七年(昭和二二年)に日本国憲法が施行された後は、被告としては速やかに「癩予防法(旧法)」の強制隔離政策を改め、それまでの強制隔離政策及びそれに伴って社会に定着した差別・偏見の解消に努めるべきだったのである。
まして況や一九五三年(昭和二八年)の時点において、「癩予防法(旧法)」の理念を継承する「らい予防法(新法)」を制定し、強制隔離政策を継続した被告の行為が、日本国憲法に違反することは言うまでもない。
2 優生政策について
被告は、一九四八年(昭和二三年)の旧優生保護法について、当時の医学的知見として、ハンセン病は妊娠・分娩により悪化する、またハンセン病は乳幼児期に感染しやすい、さらにハンセン病は完治する方法がないと考えられていたため、同疾患の子孫への伝染と防止と母体の保護を目的とする観点から、本人と配偶者の同意を得ることを条件に優生手術又は人工妊娠中絶を行うことができるとされたことには合理性があった、と主張する。
しかしこの旧優生保護法は、一九一五年頃に始まり、一九四〇年の国民優性法では非合法とされにも関わらず実施され続けた療養所内での優生手術を追認するものであった。この点は本書面第一・一・5で述べたとおりである。すなわちハンセン病に関しては、強制隔離施設の収容下において事実上の強制断種を認めたものなのである。
このような人権侵害が許されないものであることは言うまでもない。ハンセン病が乳幼児期に感染しやすいとしても、それは適切な保育環境を整備することで対処すべき問題であるし、母体保護のために優生手術が望ましいとするならば、それは結婚や同居を認めるといった条件にかからしめるべきものではなく、実施される側の完全な自由意思で行われるべきものであった。被告のハンセン病に関する優生政策を正当化する根拠は一切存在しない。
第二 本件訴訟における立証の対象について
被告は準備書面(二)において、本件訴訟の争点は
- 厚生大臣が昭和五三年七月以降も、新法及び「優生保護法中ハンセン病患者に関する部分」の廃止法案を国会に提出しなかったことが違法か
- 国会議員が、昭和五三年七月以降も新法及び「優生保護法中ハンセン病患者に関する部分」の廃止法案を議決しなかったことが違法か
- 仮に違法であるとして、具体的にいかなる損害が発生したか(昭和五三年以降平成八年四月一日までの間に、原告らのうち社会内で生活していた者がいかなる損害を被ったか)
に尽きるのであり、被告は既に1及び2の点がおよそ、国賠法上違法と評価できないことについて詳述し、これを裏付ける書証を提出しているので現段階における証拠調は不要であると主張している。
しかし本件訴訟の基本的な争点は本準備書面の冒頭に述べたところであり、被告の争点設定はまことに手前勝手なものとしか言いようがない。先にも述べたが、原告らは八九年間にわたる強制隔離政策の下で高齢化しており、本件訴訟の審理が長期化することは絶対に避けねばならない。このような無益かつ無責任な論争は止め、速やかに立証に入るべきである。
一 除斥期間の適用について
被告の右主張は除斥期間の適用に全面的に依拠するものである。この点についての原告の主張は既に原告準備書面(三)及び(四)で述べた。被告は国民の基本的人権を保障すべき自らの立場を十分弁えるべきである。
二 先行行為に基づく作為義務の主張に関連して
被告は、一九四七年(昭和二二年)時点において、「癩予防法(旧法)」を廃止し、ハンセン病患者の人権を回復すべき作為義務を負っていた。これに対する被告の義務違反は、実際に「らい予防法(新法)」が廃止された一九九六年四月一日まで継続している。
したがって仮に除斥期間の適用があるとしても、一九七八年七月以降の義務違反について被告が責任を負うべきことは明らかである。
この点について被告は既に主張・立証を終えたという立場のようである。しかし一九七八年七月の時点での被告の作為義務違反を判断するためには、一九〇七年「癩予防に関する件」以降の、被告のハンセン病対策及びそれによって原告らが受けた人権侵害の実態を、被告の先行行為として明らかにする必要がある。またこの点についての被告の過失の有無を判断するためにも、一九〇七年以降のハンセン病に関する知見及びそれに関する被告の認識を明らかにする必要がある。
被告は準備書面(二)において、昭和二二年以前の厚生省職員による違法な政策ないし国会議員の立法による法益侵害行為があったとしても、法的には昭和二二年以降に厚生省の職員となった公務員ないし国会議員が右違法行為を引き継ぎ、責任をとらねばならない関係にあるわけではない、と主張する。また公務員ないし国会議員には、自らに課せられた職務上の義務に従い職務を遂行する義務はあるが、それは従前の職員の先行行為に基づき課せられたものではなく独自の義務である、と主張する。
確かに国賠法一条に基づく責任は個々の公務員の公権力の行使における故意・過失に基づく違法行為について成立するものではあるが、このことは、ある先行行為を基礎として公務員の不作為の違法性を問題とする場合に、その先行行為が当該個々の公務員自身の公務員によって行われていなければならないということを意味するものではない。たとえ従前の公務員の違法行為であっても、それが「国」としての公権力の行使であり、そのために憲法違反、人権侵害の状況が出現している以上、これを是正することこそがその公務員に課せられた職務上の義務であると言うべきであり、昭和二二年以降に厚生省の職員となった公務員ないしは国会議員であっても、この義務の違反がある以上、責任を負うのは当然の理である。被告の主張は、このような先行行為による作為義務の発生の問題と、違法性の承継の問題を敢えて混同することによって、自らの違法行為を審理の対象から外し、不問に付すことを目的とした詭弁に過ぎない。
さらに被告は、原告の主張する先行行為はいずれも日本国憲法施行前で、かつ国賠法施行前の、いわゆる国家無答責の法理が採用されていた間のことであり、国が先行行為に基づいて何らかの損害賠償義務を負う余地はない、と主張する。
しかし原告は、先行行為自体を訴訟上の違法行為として主張しているのではなく、先行行為に基づく作為義務の違反(不作為)を違法行為と主張しているのである。しかして、日本国憲法施行前かつ国賠法施行前の立法及び政策による人権侵害は、被告の不作為により日本国憲法及び国賠法施行後も「らい予防法(新法)」廃止まで継続し、是正されなかったのである。その不作為による損害賠償を求めることは実定法上何の矛盾もない。また日本国憲法施行後に継続した人権侵害の深刻さを理解するためには、それ以前の先行行為の誤り及びそれによる人権侵害の甚大さを明らかにすることが是非とも必要なのである。
三 厚生省の責任原因についての誤解
被告は準備書面(二)の六頁以下において、厚生省の責任原因に関する原告の主張を以下のとおり要約している。
「責任原因となる主要事実については、厚生省が職務上の義務に違反して
(1)
- 昭和二二年以降ハンセン病患者の「強制隔離(撲滅)政策を採り、展開したこと
- 新法の法案を内閣を通じて提出したこと
- 新法及び「優生保護法中ハンセン病患者に関する部分」の廃止法案を提出しなかったこと
であり、さらに、責任原因ではないものの、右(1)の強制隔離(撲滅)政策を基礎づける具体的事実(間接事実)として
(2)
- ハンセン病患者につき、強制収容し、外出を禁止し、退所させなかったこと(監禁ないし監禁類似行為)
- 偏見・差別による社会との隔離
- 断種手術の強制
- 治療の不実施と不充分な治療
- 労働の強制
- 懲戒処分
- 園名の強制
- 昭和二四年の療養所増床計画の策定」
右要約の中で、(2)1「ハンセン病患者につき強制収容し、外出を禁止し、退所させなかったこと」が、主要事実ではないとの理解は明らかな誤りである。原告が、各原告の在園期間を主張し、訴状、準備書面において強制隔離措置について主張しているのは、厚生省の政策責任の外に、個別の原告に対する監禁ないし監禁類似行為の違法を問う趣旨である。
四 結論
除斥期間適用の有無にかかわらず、一九〇七年以降のハンセン病対策及びそれによる人権侵害の実体を審理の対象から外す理由はなく、また除斥期間の適用の有無に関しても、その審理を終えてからでなければ正当な判断はできないことは明らかである。いずれにせよ速やかに立証に入るのが、迅速かつ適切な紛争解決の途であることは言うまでもない。