歴史を偽造・隠蔽する厚生省
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歴史を偽造(ぎぞう)する厚生省
裁判において厚生省は、二つの意味で歴史を「偽造(ぎぞう)」しようとしました。一つ目は、ハンセン病がいつ治る病気になったのか、という点です。二つ目は、ハンセン病療養所内で、国が何を行ってきたかという点です。
ハンセン病がいつ治る病気になったか。
ハンセン病は、らい菌による慢性感染症です。その感染力・発病力ともに極めて弱いものです。特に、戦後、画期的な治療薬であるプロミンにより、治る病気になりました。
かかるプロミンの出現などを根拠に、患者さん達は、1953年(昭和28年)にらい予防法の改正反対闘争を行ったのです(らい予防法の改正反対闘争写真)。
この点について厚生省は、全く意外な主張をなしてきました。「1981年(昭和56年)に、世界保健機構(WHO)が提唱した多剤併用療法こそが画期的な治療法である。したがって、それまでは隔離は必要であり、「らい予防法」には医学的な根拠があった」との主張をなしたのです。
しかし、裁判において証言にたったハンセン病の専門家はいずれも、「プロミンの誕生でハンセン病は治る病気になった。厚生省の主張は理解できない。」と証言しました。
そもそも、厚生省は自ら1975年(昭和50年)に発行した書籍の中で、「昭和21年に、わが国で初めてプロミンが用いられ、らいに著しい効果をあげた。「らいは可治の病」になった・・・・まるで長いトンネルから抜け出したようなまぶしいほとの転換期があった」、「新薬プロミンは、奇跡的ともいえる効果を発揮し、プロミン以後とも言われる時代が始まった。」などとプロミンの効果を絶賛しているのです。
みずからがその効果を絶賛し、また専門家に「厚生省の主張は理解できない」と言われながらも、「治る時期」を遅らせる厚生省の態度は、まさに「歴史の偽造」というべきです。
療養所内で、国が何を行ってきたか。
国は療養所内で行った事実までも偽造しようとしています。たとえば、感染のおそれのある患者しか強制隔離しなかった、患者作業は慰安・健康保持のために行ったのであり、強制の要素はなかった、などと主張しています。
かかる主張については、歴史の生き証人である原告達が、口々に反論しています。
ハンセン病と判明したならば、警察官・県の衛生課の職員らが入所するように、その家庭を訪問し続けました。「1年で治るから」、「すぐに帰れるから」などとの欺罔を用い、もしくは、警官が「うろうろしないで、おとなしく園に入れ」などとおどしながら、すべての患者さん達の収容が進められたのです。
特に、1931年からは、全国すべての患者さんを収容しようとする国策が取られました。いわゆる「無らい県(ぶらいけん)運動」と言われるものです。言葉のとおり、県から一人のらい患者さんを無くすという運動でした。たとえば、1940年(昭和15年)熊本市の本妙寺部落が、三日間に渡り熊本警察により強制収容されたのです(本妙寺部落の強制収容の生々しい映像はこららをご覧ください。)。
以上のような、徹底した収容を行っていたのであり、「感染のおそれのある患者しか強制隔離しなかった」との主張は、事実をねじ曲げる偽造に他なりません。
また、「患者作業は強制の要素はなかった」とも主張しますが、患者作業がなければ、園の運営はまかなえなかったのです。患者看護、食事運搬、布団洗い、包帯・ガーゼ洗い、子どもの患者の教育、亡くなった方の火葬などまでもが、患者さんによって行われたのです。
患者作業が強制でなかった、との主張は、かかる事実に泥を塗るものです。
歴史を隠蔽(いんぺい)する厚生省
原告である元患者さん達が明らかにする、圧倒的な「歴史」の重みの前に、厚生省の「偽造」は失敗しつつあります。そこで、力を入れはじめたのが、歴史の「隠蔽(いんぺい)」です。この隠蔽も、大きく二つに分かれます。一つ目が、二〇年以上前の行為の責任を問わないという「除斥(じょせき)期間」の主張です。二つ目が、厚生省が、隔離政策を開放政策に転換したとの主張です。