第四準備書面
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平成一〇年 第七六四号・第一〇〇〇号・第一二八二号
原告 原告番号第一 外四四名 被告 国
平成一一年四月一三日 右原告ら訴訟代理人 弁護士 徳田靖之・八尋光秀 外一三七名
熊本地方裁判所 第三民事部 御中
第一 はじめに
一 被告の除斥期間に関する主張の特徴とその背信性について
1 除斥期間に拘泥する被告の意図について法律第一一号「癩予防に関する件」の制定
被告は、その準備書面 において、除斥期間の適用は、裁判所の責務であり、「被告は、従前からこの点については、裁判所の注意喚起を促す指摘をしているにすぎない」等と主張するに至った(同書面二〇頁)。
しかしながら、このような弁明は、従前からの被告の応訴態度や同書面における被告の除斥期間に関する主張内容に全く相反するものである。
そもそも被告は既に答弁書において、民法七二四条後段により、昭和五三年七月三〇日以前の行為を理由とした国家賠償請求権は消滅したと主張し、更に準備書面 においては、わざわざ冒頭に「本件審理の対象について」との項目を附したうえで、本件審理の対象は、昭和五三年七月以降の国家賠償請求権の存否に限られると主張してきた。
そのうえで、今回の準備書面 では、三たび除斥期間に関する主張を重ねたうえで、除斥期間の経過を唯一の理由として、本件審理における争点を昭和五三年七月以降における国家賠償請求の可否(違法と損害の有無)に尽きるとし、書証以外の証拠調の必要性を不要とまで主張するに至っているのである。
こうした被告の従前からの応訴態度や主張内容に照らせば、被告の除斥期間に関する主張は、単に「裁判所の注意喚起を促す指摘」というものではなく、本件訴訟において、昭和五三年七月以前に関しては、その審理を何としても避けたいとの国としての明確且つ強固な意思の表明と解する外はない。
しかしながら、必ずしも違法評価の対象と事実調べの対象とは一致するわけではない。仮りに違法評価の対象を昭和五三年七月以降の事実に絞るとしたところで、ハンセン病対策としては、明治四〇年の旧らい予防法制定以来平成八年の法廃止までの間、その主要部分は基本的に同一なのであるから、被告が主張する「厚生大臣が昭和五三年七月以降も新法の廃止法案を国会に提出しなかったことが違法か否か」という点を判断するためには、日本国憲法の規定やハンセン病についての国内外の知見及び国内の患者の状況や療養所における「隔離」の実情等を総合的に対比・考慮しながら、違法評価をなすべきであるし、その全ての経過の中で、遅くともいつから違法であったと判断されるのかを明らかにしなければならない。
そのうえ、仮りに違法となったのが昭和五三年七月以降であると判断されたとしても、何故にその後も平成八年三月に至るまで「らい予防法」が廃止されなかったのかについての判断をするためには、「旧らい予防法」に代表される戦前から今日までのわが国のハンセン病隔離政策の根拠とその変遷を明らかにすることが必要不可欠となるはずである。
このように見てくると、被告の除斥期間論は、違法性に関する審理の対象を限定することには、全く役立たないことが明白である。
そのうえで、原告らは、本件訴訟において、損害論を除く立証としては、既に申請済の二名の証人と検証の申出の外には、一名ないし二名の証人を予定するのみであることを明らかにしており、本件では、審理の対象を昭和五三年七月以降に限定しないことが裁判の長期化につながる恐れもない。
このように検討してみると、被告の除斥期間論の意図は明白となる。
原告らの損害を、昭和五三年七月以降に限定し、その結果として、原告らの賠償額の大幅な削減を図るということである。
それは審理の対象となるべき原告らを拘束した期間の短縮化による損害額の削減にとどまらず、断種・中絶の強制、強制労働、監禁、非人間的な雑居等の人権蹂躙が集中した期間の被害実態が白日の下に晒されることを恐れ、これらの非人道的な絶対隔離政策が法によって裁かれることを何とかして逃れたいとの意図によるものと指弾せざるをえない。
これが、厚生大臣が「らい予防法」の廃止の遅れを公式に謝罪し、「らい予防法が今日まで存続し続けたことが、結果としてハンセン病患者そしてその家族の方々の尊厳を傷つけ、多くの苦しみを与えてきたこと、さらに過去において優生手術を受けたことにより、在園者の方々が多大なる身体的、精神的苦痛を受けたことを率直にお詫び申し上げたい」と述べたはずの国の応訴態度として許されるのであろうか。
被告の除斥期間に関する主張の法理論的な誤りについては、項を改めて詳述するが、こうした主張の背信性を明確にしておくために、東京水俣病訴訟におけるチッソの応訴態度を指摘しておきたい。
周知のとおり、東京水俣病訴訟判決(東京地判平四・二・七 判タ七八二号)は、被告が引用する最判平元・一二・二一の除斥期間判例の後になされた判決であるが、同事件において被告チッソは除斥期間の主張をせず、裁判所はこれを除斥期間の利益を放棄する意思によるものと認めて、除斥期間の適用をしなかった。
被告国は、右事件におけるチッソの除斥期間についての対応と自らの本件における応訴態度とを謙虚に対比してみるべきではないか、と思料する。
2 原告らの除斥期間についての主張に対する被告の誤解について
被告は、その準備書面 において、原告らの除斥期間についての主張を要約したうえで、これに対する反論を行っているが、その立論の特徴は、原告らの主張を正しく理解しようとせず、誤って要約したうえで反論する点にある。
原告らの除斥期間に関する主張は、原告準備書面 三四頁以下に詳述されているが、その主張の要旨は次のとおりである。
本件での除斥期間の起算点は、「らい予防法」が廃止された平成八年三月であり、したがって本件では、除斥期間の経過はない。この点は、民法七二四条後段の「不法行為の時より」の解釈としても、原告らの被害が日々拡大・累積し、法廃止に至って初めて確定したという損害としての特殊性の面からも基礎づけられる。
本件では、仮りに除斥期間が経過していたとしても、民法七二四条後段を適用することは、「正義・公平の理念」ないし「条理」(最判平一〇・六・一二 判時一六四四・四二)ないし公序良俗に反し許されない。
ところが、被告は、こうした原告の主張を正確に理解することを怠り、例えば原告らの主張の内、前者について、「原告らの損害賠償請求の訴え提起が困難であったがために、権利行使の障害がある期間は除斥期間が進行しない旨の主張である」と要約し、「権利行使の障害」は除斥期間の起算点を定めるにあたって影響を及ぼすものではないとの反論を行っている。
しかしながら、原告らは、後述のとおり、平成八年三月まで「法」は存在し、本件違法行為は「法の名において」行われたのであるから、民法七二四条後段の「不法行為ノ時」は、法廃止の時から起算されるべきであると主張しているのであって、被告の主張は全くの誤解である。
また、被告は原告らの主張する損害が、「社会の中で平穏に生活する権利の侵害」であるとして、これを騒音被害と同視し、(法の存在それ自体により)日々新たに発生し、内容の把握が可能である性質を持つと解釈したうえで、鉱業法一一五条の類推適用は許されないと主張する。
しかしながら、原告らは、「社会の中で」平穏に生活する権利を奪われたと主張しているのであり、その主張の主たる柱は、隔離による社会との隔絶、つまり監禁ないし不法抑留類似行為である。
時間の経過とともに、社会との人的つながりは稀薄となり、加齢とともに就労、就学の機会と可能性が奪われていくという意味で、社会復帰が一層困難となり、ついには絶対不可能に至るという意味で日々拡大累積する損害であって、騒音被害等とはその本質を著しく異にしている。
したがって、この点においても被告が原告らの主張を正しく理解せず、そのためにその反論が全く前提を誤るものとなっている。
こうした誤解は、公序良俗違反の主張や最判平一〇・六・一二の解釈についても同様である。
そこで、原告らとしては、本準備書面において、除斥期間に関する原告らの主張を改めて整理し、被告の反論の誤りを明らかにしておきたい。
二 本準備書面の構成について
本準備書面においては、以上を踏まえたうえで、先ず除斥期間についての判例の動向を整理し、そのうえで、本件における除斥期間の起算点は平成八年三月であること及び本件で除斥期間を適用することが、条理あるいは公序良俗に反し許されないことについて原告らの主張を明らかにする。
第二 除斥期間に関する原告らの主張
一 除斥期間に関する判例の概観
1 最判平元・一二・二一の射程距離とその後の裁判例の動向について
被告の引用する最判平元・一二・二一は、民法七二四条後段を除斥期間と解し、当事者の主張の有無にかかわら、裁判所が判断すべき事項であるとして、信義則又は権利濫用の主張自体を失当とした。
しかしながら、右判例は、一回的加害行為による単一的損害に関する事案であって、継続的不法行為における除斥期間の起算点の如何に関しては、何らの判断も示していない。
民法七二四条後段における「不法行為の時から」について、別異の解釈をする余地のない事案だからである。
一方で、右最判が、除斥期間については信義則又は権利濫用の主体自体失当であるとした判旨については、その後の下級審及び最高裁の判例において、その例外が次第に拡大されるに至っている。
例えば、前述の東京水俣病訴訟における東京地判平四・二・七 (判タ七七八二号)は、除斥期間の利益の放棄を認め、京都水俣病訴訟における京都地判平五・一一・二六(判時一四七六・三)は、「加害者をして除斥期間の定めによる保護を与えることが相当でない特段の事情」ありとして権利濫用の主張を認め、予防接種禍大阪訴訟についての大阪高判平六・三・一六(判時一五〇〇・一五)は、時効の停止の規定である民法一五八条の類推適用を認めるとともに、裁判外の行政救済措置に対する給付申請を、除斥期間内の権利行使と同視して、実質的に除斥期間の進行の停止を認めるといった具合である。
こうした裁判例の集積の中で、予防接種禍東京集団訴訟について、最判平一〇・六・二(判時一六四四・四二)がなされたのであり、同判例は、大阪高裁判決と同じく、民法一五八条の類推適用を認め、事実上「除斥期間の停止」がありうることを認めるに至ったのである。
右最高裁の判決が、民法七二四条後段を消滅時効ではなく除斥期間であるとしながら、時効の規定である民法一五八条を類推適用するというのは、一見すれば背理とも言いうるが、同判決はこの点を、「被害者は、およそ権利行使が不可能であるのに、単に二〇年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないことになる反面、心神喪失の原因を与えた加害者は、二〇年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反する」と指摘し、「このような場合に当該被害者を保護する必要のあることは時効の場合と同様であり、その限度で民法七二四条後段の効果を制限することは条理にもかなう」と説明している。
つまり、右最高裁判例は、「正義・公平の理念」あるいは「条理」によって、除斥期間には本来ありえない「停止」をめたものということになる。
2 継続的不法行為における除斥期間の起算点に関する裁判例の動向について
継続的不法行為における除斥期間の起算点について、最高裁の判例はないが、下級審の裁判例はその起算点を「加害行為の終了した時」と解している。
例えば、東京地判昭五六・九・二八(判時一〇一七・三四)は、「二〇年の時効の起算点である不法行為の時は、不法行為が終わった時である」との原則を示しており、関西水俣病訴訟についての大阪地判平六・七・一一(判時一五〇六・五)は、除斥期間の起算点を「加害行為の止んだ時から四年を経過した時点」と判断している。
前述の京都水俣病訴訟事件において、被告となった国及び熊本県は、国に対する請求の除斥期間は、不作為の違法状態が終了した時点であると主張しているところでもある(判時一四七六・二七)。
一方で、(継続的)不法行為による損害が、一定期間を経て発生する場合や、相当長期間にわたって進行的に発生・拡大し、そののち確定する進行性損害の場合には、その損害の進行が止んだ時、つまり損害の確定した時が除斥期間の起算点であるというのが、鉱業法一一五条「類推説」であり、これを採用するものとして、東京地判昭五六・九・二八の外、宮崎地延岡支判昭五八・三・二三(判時一〇七二・一八)がある。
なお、被告は、準備書面 において、騒音被害に関する裁判例を列挙するが、これらは、短期消滅時効の「損害を知った時」の解釈に関するものであって、民法七二四条後段つまり除斥期間の起算点に関するものではない。
二 本件における除斥期間の起算点に関する原告らの主張
1 本件における加害行為の終了は、「らい予防法」が廃止された平成八年三月であり、この時点が民法七二四条後段の「不法行為の時」つまり起算点となる。
本件で原告らが「不法行為」と主張するのは、日本国憲法が施行された昭和二二年から平成八年三月までの間において、旧「らい予防法」及び改正「らい予防法」を廃止しなかった不作為の違法である。(昭和二八年の「らい予防法」の制定は、同時に旧「らい予防法」を廃止しなかった不作為としての性格を持つ。なお、優生保護法の 廃止に関しては、昭和二三年以降となる。)
その特徴は次の二点にある。
第一は、継続的不法行為としての不作為の違法を問う点である。この点では、特定の基準時における一回的な権限不行使等の不作為が問題となる事案とは、その性格を著しく異にするものである。
第二は、その不作為の対象が、違憲・違法な「法律」の廃止をしなかったという点であることである。
単なる行政権限不行使等の不作為とは異なるということである。
したがって、本件における「不法行為の時」つまり起算点の判断にあたっては、次の二点において、特別の留意が必要となる。
第一は、一回的不法行為における「起算点」に関する判例・学説の解釈が全く妥当しないということである。
第二は、当該法律の存続自体が、不法行為を正当化する根拠となるが故に、法律の廃止がない限り、違法状態(加害行為)が解消したことにはならないということである。
よって、本件において、不法行為(加害行為)が止んだのは、平成八年三月の「らい予防法」廃止の時であり、前述の裁判例からしても、ここから除斥期間が進行するというべきである。
なお、右の理は、平成八年三月まで、強制隔離政策を継続した厚生大臣らの責任についても妥当するものである。
除斥期間は、損害賠償請求訴訟を提起しうる期間についての制限であるところ、本件加害行為は、原告らを終身療養所内に拘束ないし社会内に閉居させ、自らが療養所に在籍していることあるいは在籍していたことを秘匿することを余儀なくすることを通じて、原告らから裁判を受ける権利(国賠訴訟を提起する権利)を事実上剥奪するものである。
したがって、その加害行為の特質から、その終了するまでは、除斥期間の進行はありえない。
原告らの準備書面 三九頁以下は、その趣旨である。
2 本件における原告らの被害の特質を考慮しても、本件除斥期間の起算点は、平成八年三月とすべきである。
本件で原告らがその損害の中核として主張するのは、違憲・違法な法律と強制隔離政策によって、半世紀を超えて不法に施設内に抑留(隔離)され、あるいは社会内にあって、排除され続けたというものである。
したがって、その損害は、学習・職業選択・財産形成、婚姻・出産・育児、移動・旅行、名誉・信用、家族・親族・友人・知人との情愛・交流の自由、社会内での治療を受ける自由・映画鑑賞その他文化活動への参加等すべてのライフステ-ジにおける人間生活全般における自由一切を剥奪された包括的損害となる。
除斥期間の起算点との関連でみた場合、その損害としての特質は、次の二点にある。
第一は、継続的な不法行為によって、継続的に侵害され続けた損害だということである。
その意味で一回的加害行為による単一的損害とは全く異質であり、被告が引用する最高裁判決(最判平元・一二・二一)とは全く事案を異にすることは明らかである。
第二は、その損害が長期間にわたって進行的に発生・拡大する累積性・進行性損害だということである。
この点では、「主として不法占拠のように、不法行為が一様に持続し、損害もまた期間に応じて一律に増大する類型」(内池慶四郎「継続的不法行為による損害賠償請求権の時効起算点」法学研究四八・一〇・二四頁以下、中井美雄・判例評論二九六・二六)とは全く異質である。
前掲の東京地判昭五六・九・二八や宮崎地延岡支判昭五八・三・二三は、このような進行性あるいは累積性の損害の場合には、民法七二四条後段の「不法行為の時」については、不法行為の成立要件が充足された時つまり損害が顕在化した時又は全損害の確定した時(進行の止んだ時)と解釈すべき旨を判示しているものである。
これらの判決は、いずれも鉱業法一一五条を参照すべき旨を判示しているが、その趣旨は、必ずしも同法を類推適用するというものではなく、あくまで民法七二四条の解釈として、このような進行性・累積性の損害の場合は、一個の損害とみて、その確定した時点を起算点とすべきであると判断したものであり、鉱業法一一五条も同趣旨であることを示したというべきである。
原告らとしも、同様の立場に立つものであり、原告準備書面 三九頁の記載はその趣旨である。
被告は、準備書面 において、原告らの損害を騒音被害と同質であるとし、「日々新たに発生し、内容の把握が可能である性質を持つ」と主張しているので、この点について反論しておきたい。(なお、前述したとおり、被告が騒音被害について引用する裁判例は、短期消滅時効の起算点である「損害を知った時」の解釈に関するものであって、除斥期間の起算点つまり「不法行為の時」の解釈にそのまま妥当するものではない。)
騒音被害の性質を詳らかにすることは、原告らの職責を超えるものであるが、少なくとも被告が主張する騒音被害とは、「不法行為が一様に持続し、損害もまた期間に応じて一律に増大する類型」の損害である。
このような場合の除斥期間の起算点について、所謂「個別進行説」が学説上存在することを、原告らも争うところではない。
ただ、その場合にあっても、慰藉料については、不法行為が終了した時点で、損害が確定するから、除斥期間の起算点は、損害の確定時とすべきと思料する(短期時効について大阪地判昭四三・五・二二 判タ二二五・一二〇)。
しかしながら、原告準備書面 三八頁以下に詳述したとおり、本件被害の特質は、累積性にある。隔離(抑留)の長期化は、社会内で平穏に生活しようとする際に次のような障害をもたらすに至る。
被隔離者自身の高齢化による就業・就学機会の喪失、社会復帰のための肉体的・精神的適応力、技術力の喪失・減退、被隔離者の家族・親戚・友人・知人の高齢化や彼らとの交流の途絶の長期化による社会内での生活基盤の破壊・減退、差別・偏見の固定化・深刻化に伴う社会全体による被隔離者の受入れ拒否の深刻化
このような障害は、隔離の長期化によって、その深刻さが累積し、回復が質的に困難になるものであって、期間の長短によってその損害が量的に区分されるものではない。
したがって、その損害は、日々拡大累積するものであり、不法行為の終了即ち法廃止に至って、その損害の全体が確定するものと言わざるをえない。
とすれば、その損害の確定する前に、除斥期間が経過して損害賠償請求が許されないというのは全くの不合理であり、「全損害を一体としてとらえ、その確定の時から(即ちその進行の止んだ時から)全損害について一律に」(前掲宮崎地延岡支判昭五八・三・二三)除斥期間が進行すると解釈すべきである。
三 「正義・公平の理念」あるいは公序良俗違反についての原告らの主張
1 最判平一〇・六・一二の趣旨とその射程距離について
除斥期間について、時効に関する民法一五八条の類推適用を認めた最判平一〇・六・一二の意義については、前述したとおりである。
その判例の解釈を導いたのは、「正義・公平の理念」あるいは「条理」であり、その適用にあたって、被害者の置かれた事情とその原因を与えた加害者の免責の結果との比較考量が行われている。
その判例の射程距離は、「被害者はおよそ権利行使が不可能である」と言いうるかどうかその原因を加害者が与えたと言いうるかどうかによって画される。
2 原告らの権利行使が不可能であった事実について
この点については、原告準備書面 三九頁以下に詳述したとおりであるが、補足しつつ再論すれば次のとおりである。
原告らは、「らい予防法」によって、終身隔離を余儀なくされ、その外出については、同法一五条により、親族の危篤・死亡・罹災その他特別の事情がある場合、法令により国立療養所外の出頭を要する場合以外には、外出を認められないこととされていた。
右規定に違反して外出した者は、同法二八条一項により、拘留又は科料に処せられると定められており、刑罰によって、外出制限が強制されていた。
この点について被告は、準備書面 において、「新法廃止のかなり以前から外出も自由であり」等と主張するが(この「かなり以前」とはいつ頃からを指すのか全く不明である)、法廃止以前における外出が右法律の規定に違反する「犯罪」であることは明らかであり、仮りにその「犯罪」が療養所長らの裁量によって、告発等の手続をとられることなく不問に附されたとしても、療養所内の原告の外出が法によって厳格に制限されていたことは何ら変わりはない。
「らい予防法」を違憲であるとして提訴するために弁護士を訪ねたり、裁判所に出頭したりすることは、同法の存続下においては、法的には許さる余地がなかったのである。
原告番号一番においては、故郷において、妻との結婚式を挙げたいとの外出許可願いすら拒否され、無断外出であるとして、監禁室に収容されているほどである。
国を被告として、「らい予防法」の違憲性を問う国家賠償訴訟を提起するための外出等は、「らい予防法」一五条に違反するものであることは明らかである。
原告らは、右法律の規定以上に、ハンセン病に対する差別と偏見の故に家族や故郷との接触を断絶することを余儀なくされ、その大半は親の葬儀にすら立ち会えず、社会との交流を事実上全面的に絶たざるをえない状況に置かれていた。
原告らは例外なく、自ら及び家族への差別・迫害を恐れて療養所に在籍していることあるいは在籍していたことを秘匿して生活し続けることを余儀なくされてきた。そのために原告らの大半は、療養所への入所に際して偽名(園名)を使用することを事実上強制されてすらいる。
そうした原告らにとって、「らい予防法」を違憲であるとして国賠訴訟を提起する等ということは、自らがハンセン病の元患者であり、療養所に在園していることあるいは在園していたことを世間に公表するに等しく、到底実行不可能であったと言わざるをえない。
原告らをして、本件訴訟の提起を可能にしたのは、 HIV訴訟において、わが国裁判史上はじめて原告番号による「匿名裁判」が可能であることが明らかになったこと 「らい予防法」の廃止によって、その誤りが明白となり且つ法的にも外出制限が撤廃されるに至ったことによってである。
「らい予防法」廃止二年後に提起した本件訴訟においてすら、原告の多くが園名での提起に固執し、本名を明らかにすることを拒み続けたことは、裁判所に顕著な事実であるが、そうした原告らに対し、本名を明らかにせよと強硬に主張し続けたのは外ならぬ被告国である。
その国が法廃止前の本名を名乗れない時代においても、訴訟提起は自由であったかの如き主張することは断じて許されるところではない。
原告らは、「らい予防法」存続下においては、療養所に在園する全期間にわたって、その生活のすべてにわたって療養所長の管理下におかれ、その裁量の範囲内においてのみ、同法の規定を超えた「自由」を享受しえたのであり、同法の存続下においては、その療養所における「隔離」の実態を違憲・違法として提訴することは、まさしく内部告発として、管理上の報復を受けることを覚悟せざるをえない状態下にあったものである。
国民健康保険の対象外とされ、療養所以外に医療を受けることが事実上不可能な原告らにとって、その報復あるいは不利益取扱いの持つ意味の深刻さは測りしれないところであり、帰るべき故郷を奪われている原告らにとって、退院命令等がなされることによる生活の破綻は致命的ですらある。
「らい予防法」における、療養所(長)と在園者との関係はまさにこうした支配・被支配の関係であると言うべきであり、原告らが個人として提訴する等ということは事実上不可能であったという外はない。
以上のような原告らの置かれた状況は、最判平一〇・六・一二における「被害者は、およそ権利行使が不可能」という状況に匹敵するものである。
なお、被告は、「全患協を通じて自らの処遇改善を強く運動してきた」等と主張して、原告らの主張を争うが、右最判が問題にしているのは、あくまで原告本人の置かれた状況であり、両親あるいは家族の存在及び同人らによる権利行使の可能性については全く顧慮されていないのであるから、全患協の存在が、個々の原告らの権利行使の可能性についての判断を左右することはありえないと言うべきである。
3 原告らの権利行使が不可能であった状況が被告の加害行為によって生じた事実について
この点については、以上に詳述したところから、「らい予防法」及びこれによる強制隔離政策の存続が原告らの権利行使を不可能にした原因であることは明らかである。
4 最判平一〇・六・一二のいう「正義・公平の理念」あるいは「条理」の適用について
最判平一〇・六・一二は、「正義・公平の理念」あるいは「条理」に基づいて、消滅時効に関する民法一五八条の類推適用を認めたものであるが、本件において、同様の法理によって、消滅時効に関する規定を類推適用する場合に、民法一五八条のような直接的な規定はない。
しかしながら、消滅時効の場合には、民法一五八条ないし一六一条に効力の「停止」という概念が認められており、又信義則あるいは権利濫用によって消滅時効を援用することを許さないという一般法理の適用も認められている。
本件で「らい予防法」の存続下において原告らが置かれていた状況が、最判平一〇・六・一二の事案に匹敵する以上、「正義・公平の理念」や「条理」に照らして、時効制度と同様な救済が与えられるべきは当然であり、その場合には、右の「効力の停止」を適用するかあるいは信義則ないし権利濫用による適用制限をするかのいずれかということになる。
前掲の京都水俣病訴訟判決は後者の立場を採用したものであるが、その立論は、当事者の援用を要しない除斥期間の本旨との整合性という点に難点がある。
そこで、原告らとしては、準備書面 四二頁において、民法一五八条ないし一六一条の法意に照らし、本件では、除斥期間の効力の停止を主張するに至ったものである。
5 公序良俗違反の主張について
被告は、準備書面 において、原告らの公序良俗違反の主張を信義則違反又は権利濫用を言い換えているにすぎないと反論しているが、これは原告らの主張を全く誤解しているものである。
原告らの公序良俗違反の主張は、被告が除斥期間の主張をすることを公序良俗違反とするものではない。
裁判所が、本件のような実情を踏まえたうえで、除斥期間の適用をすること自体が公序良俗違反になると主張するものである。
その趣旨は、前掲最判平一〇・六・一二のいう「正義・公平の理念」や「条理」に共通するが、本件では、それに加えて、裁判所にとって特別に重要な要因が存する。
「らい予防法」の違憲性がその訴訟の主たる内容になっているという要因である。
憲法を擁護し、これに抵触する法令や措置を排除することを使命とする裁判所において、前述のように除斥期間内に権利行使が不可能な状況が認められ、且つその原因が被告の加害行為に起因することが明らかな事案にあって、その加害行為が憲法に違反した人権蹂躙であるという場合に、民法七二四条後段により、除斥期間を理由に原告の訴えを排斥することは、その使命に反し、公序良俗に反することになる。
原告らの主張の趣旨は右のとおりであり、被告の反論は全くの的外れである。
以上検討したところから、本件において、民法七二四条後段の適用のないことは明らかと思料する。
以上