少年付添人活動レポート
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少年付添人活動レポート
事例1「非行を繰り返した兄弟」
兄弟との出会い(要保護性解消へのかかわり)
9月、当番弁護士経由で会った弟は15歳、万引きで逮捕され、少年鑑別所にいた。
父親は死亡しており、母親と16歳の兄がいるものの、母親は暴力団親交者と同棲。そのため、兄弟は二人だけで借家に残され、暴走族との関わりを深めていた。また、兄弟に関わろうとする叔父(母の兄)がいるものの、暴力団の組長であり、教育という名の下に兄弟に暴行を加えていた。
この段階で社会資源として考えられるのは、母親しかいないかった。そこで、付添人活動の目標としては、いかに母親に自覚を持ってもらうか、内縁の夫との同棲をやめ、兄弟のために家に戻ってもらうか、というところに主眼をおいた。
熱心な調査官と共同で母親に働きかけた結果、母親は、兄弟のもとに帰ることを誓約し、弟は、無事試験観察になった。
ここまでは普通の少年事件である。今思えば、ここから兄弟との長いつきあいが始まることになる。
試験観察から3か月後、調査官から、「どうも母親と少年の様子がおかしい」との電話を受けた。調査官が繰り返し家に電話をするも、いつも兄弟しかおらず、「母は体調が悪く寝ている」などと説明するばかりというのである。案の定、母親は内縁の夫のもとに走り、兄弟に嘘の説明をさせていた。時を置かずして、弟は家を出て行方不明になった。その後、ぐ犯立件で身柄を取られてしまい、翌年1月、少年院送致(短期)となった。
付添人活動としては、試験観察後、電話連絡をしていたものの、家庭訪問するなど母親との連絡を密にしていなかったことが悔やまれた。社会内処遇を目指すあまり、かなり強引に要保護性の解消を行うことがある。そういう場合は、試験観察に限らず保護観察の場合でも、審判後の家族の状態を付添人自らの目で確かめ、そしてコントロールする必要がある。
少年院での面会(仮退院後の環境調整)
こうして、弟は短期少年院送致となった。九州地区の短期少年院は、長崎の佐世保学園となる。佐世保学園は、三方を山に、南面を海に囲まれたという特殊性を生かし、カッター訓練などを教育に取り入れている。短期少年院の場合、半年を経ずに社会に出てくるので、引き続きどこまで環境調整できるかがポイントとなる。
私は、審判から3か月後の5月初め、少年院に面会に行った。カッター訓練で鍛えられ真っ黒に日焼けした弟は、元気そうだった。そして「僕が出るまで、母もがんばるからという手紙をもらった。」、そう嬉しそうに語ってくれた。
「息子が少年に行くのは自分の責任だ。男性との関係も整理して、息子達と生活できるように準備しておきたい。」母親は、少年院送致になった審判において、涙ながらに語った。その母の言葉だけを心の支えに弟は、少年院でがんばっているようだった。
少年院送致の付添人活動には、弁護士業務として難しい点もある。しかしながら、自分の関与した少年が少年院でどんな生活を送っているのか、機会があれば自分の目で確かめておきたい。また、少なくとも、少年院から帰ってきた後の環境調整の手当てには目配りをしておきたい。
兄の非行(試験観察)
母親も積極的に私に連絡を寄越すなど、彼女なりに息子の帰宅に備えようとしていたようである。
ところがそんなさなか、今度は兄が逮捕された。弟とは1歳違いの17歳である。暴走族による共同危険行為であった。
母親は落胆しつつも、自ら少年の雇用先として魚屋を探してくるなどがんばってくれた。
鑑別意見は、保護観察相当。「実質的なとりまとめ役は成人の暴走族OBであり、少年は名ばかりの総長にすぎない。物事を深く考えられない未熟さがあるので不安は残るが、周囲の支援が得られ、少年なりに頑張って生活が改善の方向にある現状を勘案すれば、今回は社会内で強力なケースワークを行うほうがのぞましい。」という内容だった。
一方、調査意見は、中等少年院送致(一般短期)。「問題行動を繰り返す中で、疎外感や母への不信感を募らせ、シンナー仲間である暴走族OBとの交友が現実逃避の手段、心のよりどころになっている。母は、少年や弟が問題行動を起こすようになると、結局、家庭を放り出して、男性と同棲をしてしまった。今回は、家族で立て直していこうという意欲を見せているものの、これまでの経緯をみる限り、その指導力には不満が残る。」、「少年院に送致してじっくり指導し、精神面での成長を即する必要があり、現時点では社会内処遇は困難と言わざるを得ない。」という内容だった。
私は裁判官に面談して、初めての非行であること、暴走族を解散すること、弟の仮退院を待っているところであり不安定さが原因であること、しかしながら、6月には弟の仮退院が迫っており、親子3人で生活することにより、兄も落ち着くと思われることを強調した。裁判官も理解を示して試験観察の意向を示すも、調査官が首を縦に振らない。実力のある調査官ほど自分の「見立て」に固執することも少なくないが、本件もそのようなケースだった。最終的には、裁判官が「何かあった場合は自分が責任を持つから」とまで調査官を説得した結果、兄は、平成9年5月、無事、試験観察になった。試験観察になった。
以下は試験観察中に、兄が、家裁に提出した感想文の一部である。 「試験観察になり2か月が過ぎた。今、いろいろな事が頭の中でめぐって行く。暴走族での走り、友達とのシンナー夜も寝ないで走り回り、人の注意も耳に入ることがなかった。・・・・・どうすればいいのか、この2か月じっくりと考えた。まず仕事をしよう。さいわいに、今の仕事は僕にあっていると思う。おいしいものを作り、目で口で食べてもらうものを作りあげようと思う。今の仕事が、これから先の僕の人生に、大きな支えになるような気がする。
この包丁が、魚が僕の分身になり、生活の支えになる事と思う。僕の料理を多くの人に食べてもらいたい、がんばって店を持ちたい。そうすれば、母も弟も一緒に生活できるようになると思う。
たった3人の家族が今は、バラバラでちがったところで生活をしている、でも、あせらないでおこう。そうゆう日が、必ず来ると信じて僕なりにがんばっていこうと思っている。」
兄の試験観察が始まって2か月後の6月、弟も、佐世保学院を仮退院し、念願の親子3名での生活がスタートした。「色々あったけど、この兄弟にかかわり続けて良かった」、付添人としても、この段階では、そんな満足感に浸ることができた。
母の蒸発と兄弟の再非行(社会資源として親の重要性と限界)
しかし母親は、元暴力団関係者という内縁の夫と蒸発してしまった。「息子二人との生活を築き上げることに自信がない」、そんな内容の置き手紙だけが残されていた。内縁の夫の地元である三重県にいるらしいとの情報を頼りに、付添人からも、そして兄弟からも手紙を出すが、返信は全くない。
母との生活だけを夢見て少年院でがんばっていた弟が、10代の兄と二人だけで生活していくことには無理がある。やがて弟は家に寄りつかず、暴走族仲間の家を徘徊した末に、10月、ひったくりで逮捕され、12月の審判で長期少年院送致(人吉少年)となった。
一方、兄は、一人取り残された後もがんばっていたが、やはり逮捕され、短期少年送致(佐世保学院)となった。
この頃は、付添人として一番無力感を味わった時期である。環境調整をしようにも、親はおらず、10代の兄弟だけが借家に取り残されている。仕事には身は入らず、やがて友人宅を泊まり歩く中での再非行である。
兄弟の再非行ともに、事案的には、社会内処遇も十分考えられるものであった。しかし「親がおらず、誰も面倒を見る者がいない以上、本人の成長を即すほかない」という論理で、二人とも少年院送致になった。
付添人としては、両親との面会を通じて、非行の原因が過保護にあるのか、不干渉にあるのか、親子の間の葛藤にあるのかなどを探っていく。しかし、注意しなければいけないのは、「子どもが非行を犯した」という事実により両親自体も追いつめられ、自信を喪失していることも少なくないことである。そのあたりにも目配りをしておかないと、付添人が環境調整をがんばりすぎた結果、さらに両親の自信喪失を引き起こすという悪循環を引き起こすこともありえる。
「母親を追いつめすぎただろうか」、「いやそんなことはない、親なんだから、内縁の夫より子どもを優先するのは当然ではないか」「しかし内縁の夫と子どもの橋渡しをもっとすべきだっただろうか」、様々な苦い思いだけが残った。
弟の最後の非行(補導委託の意義と限界)
翌年3月、まず兄が、佐世保学院を仮退院した。19歳になっていた。兄は、仮退院後に自分で仕事を見つけ、結婚を前提に彼女との生活を始めた。自分の親に対する思いを自分なりに整理していこうという意欲が見受けられ、救われる思いがした。
一方、弟は、人吉少年院から仙台少年院に移され、仮退院した。これまで引き取りやかかわりを拒否してきた叔母(母親の妹)が、引き取ることを了承したからである。18歳になった弟は、叔母が経営するコンビニエンスストアでの仕事を始めたものの「兄に会いたい」と言い出し、福岡に度々来訪するようになっていた。
そして、5月、福岡において、友人と花火の後、通行人とのいさかいから暴行事件を引き起こして、逮捕されてしまった。
久しぶりに鑑別所で会う弟は、体も大きくなり、言葉遣いもきちんとしていたが、考え方は幼いままだった。調査官と一緒に悩んだのが、環境調整だ。兄は女性と同棲しており一緒には生活できない、福岡の叔父は暴力団の組長である、仙台の叔母は、再度の引き取りを頑なに拒絶、母親は相変わらず連絡が取れない・・そんな絶望的な状況だった。
結局、身柄付き補導委託による試験観察を実施することになった。当時、福岡家庭裁判所での補導委託先としては、16施設あった。その中の中華料理屋で住み込みで働きながらの試験観察になった。田舎の大きな中華屋であり、また、経営者も少年の立ち直りには熱心である。しかし仕事は厳しく、自由時間はほとんどない。外部への電話連絡も禁止であり、付添人からの電話連絡も、「付添人かどうかわからない」と言って拒否するため、裁判所に抗議したこともあった。紆余曲折あったが、無事試験観察を終了した。
このような環境は、この中華屋に特殊なことではなく、身柄付き補導委託先全般の問題である。少年は、鑑別所・少年院以上に規則正しい生活を強いられるため、不平不満がたまりやすい。関係者に任せきりにするのではなく、付添人自ら委託先に足を運び、少年の不満を解消し、うまく更正のルートに乗せていく必要が高い。賃金にしても、少年と委託先との雇用関係には労働基準法の適用がないと解されている結果(昭和40年5月20日労働省労働基準局回答)、ハードな仕事に見合わない賃金に不満を持つ少年も少なくなく注意が必要である。
最後に
私が兄弟と最初に出会ってから既に10年以上がすぎた。現在兄弟は成人し、2人とも結婚して、既に子持ちである。たまに困ったことがあると、無料電話相談を持ちかけてくるが、何とか元気にやっているようである。
母親は、結局、兄弟と再会することもなく、その後、内縁の夫と生活していた関西方面で亡くなった。兄は遺体で母を確認した。弟は遺体の母親にさえ会うことがかなわなかった。
付添人活動は時に無力感を味わうことが少なくない。私はこの兄弟から付添人の存在意義を考えさせられた。「兄弟は結局、自分の置かれた境遇で、加齢とともに成長しただけではないか」、「自分は、本当にこの兄弟の立ち直りに資しているのだろうか」。
答えは今もでないが、私の付添人活動の原点となった兄弟である。