ハンセン病隔離法廷を最高裁が検証へ、50年を経て異例の調査
目次
◆ 最高裁が異例の検証開始
最高裁判所がハンセン病患者に対して行った「特別法廷」について、調査委員会を設けて検証を開始していたことが判明しました。
最高裁が過去の裁判について検証を行うのは極めて異例です。
2013年11月、全国ハンセン病療養所入所者協議会が、特別法廷での審理は裁判の公開を定めた憲法に違反するとして、検証を求める要請書を提出していたものです。
最高裁によると、伝染の恐れを理由に特別法廷で開いた裁判は95件。このうち、後の訴訟で隔離政策が意見だったとされた1960年以降は27件あった。
近く元患者らの聞き取り調査を始める。(10月19日付け朝日新聞)
ハンセン病違憲国賠訴訟は1998年提訴し2001年5月11日の熊本地裁が違憲と判断。当時の小泉総理が控訴を断念して解決に向かいました。
私は弁護団代表とともに、最終準備書面の事実編を担当させてもらいました(ちなみに原告側最終準備書面は、「事実編」として393頁、「責任編」として295頁、「損害編」として225頁、「個別損害編」として256頁を提出しました)。
この最終準備書面事実編において、特別法廷で裁かれ死刑になった藤本事件には言及したものの、特別法廷全体の統計はなく、詰め切れていませんでしたので、1960年以降も27件あったというのは個人的にも驚きでした。
◆ 特別法廷とハンセン病
この特別法廷とは、全国13か所に設置したハンセン病療養所内や医療刑務所内に仮設した法廷のことをいいます。
最高裁判所は、ハンセン病患者を当事者とする裁判手続きの一切を、裁判所法69条2項に基づいて、特別法廷で行うことを許可し続けていたわけです。
一方、ハンセン病は、アメリカで開発されたプロミンという特効薬で戦後すぐには直る病気になっていました。
それにもかかわらず、戦前のハンセン病患者を終生隔離する政策が、日本国憲法下においても継続されました。つまり、1953年に制定された「らい予防法」に引き継がれ、1996年の法廃止まで継続したものです。
◆ ハンセン病療養所での傍聴が困難なこと
ハンセン病療養所という隔離施設の中に仮設した法廷を、一般人が傍聴することはありえず、裁判公開を定めた憲法に違反するのではないかという問題になります。
この点についてはハンセン病違憲国賠訴訟の中でも思い知ったことがあります。
1998年に提訴した後、弁護団は、裁判所に隔離施設の実態を見てもらうため、療養所における出張尋問(原告本人尋問)を求めて証拠採用されました。
陸の孤島というべき鹿児島県鹿屋の敬愛園でも出張尋問が行われることになりました。
メディアにも注目され、支援者も園を訪問することを希望しましたが、敬愛園の当時の園長はなんと「許可なく園内への立ち入りを禁ず」という立て看板を設置して園内の出入りさえ厳しく制限したのです。
しかも、公会堂での出張尋問が開始する直前には、「公会堂には近づかないように」という園内放送まで行うほどの念の入れようでした。
これが2000年8月の出来事です。
らい予防法が廃止される1996年以前に特別法廷を傍聴することなどできなかったことは、想像にかたくないところでしょう。
◆ 最高裁調査の意義
新型インフルエンザにしろ、エボラ出血熱にしろ、感染症のニュースが出るとつい危険性にだけ目が奪われてしまい、医学的知見は飛び越えて、思考停止してしまうことが少なからず見受けられます。
最高裁が戦後も長きに渡って、公開の保障されていない「特別法廷」を許可し続けてしまったこと、いわば思考停止してしまったことついて、自らどこまで真相に迫れるかが問われています。