ハンセン病患者団体会長の神美知宏さんが死去、患者の処遇改善に尽くした60年
ハンセン病全療協会長である神美知宏さん(80歳)が5月9日、お亡くなりになりました。
10日からハンセン病市民学会に出席するため開催地群馬のホテルで倒れられ、死亡が確認されたものです。
福岡県生まれの神さんは16歳でハンセン病を発症。1951年高校を退学し17歳で高松の大島青松園に入所しました。
それから患者を強制隔離してきた予防法が1996年に廃止されるまでの45年間、園の中での偽名による生活を余儀なくされます。
入所して10年目の27歳の時には完治しましたが、大島青松園に残り、やはり患者運動の中心だった曽我野一美さんとともに強制隔離された患者の処遇改善に取り組み続けました。
1995年には患者団体である全療協の事務局長に就任するとともに東京の多磨全生園に転所。
1996年の予防法廃止から本名である「神」を名乗り、率先して差別偏見の解消にも取り組まれました。
そして2010年からは全療協の会長に就任していたものです。
国を被告とするハンセン病違憲国賠訴訟が熊本地裁に提起された1998年頃、全国13の療養所に入所している患者・元患者らは、「国にたてついて裁判すると今の生活がなくなるかもしれない」と訴訟に踏み切れない方もたくさんおられました。
強制隔離されてから数十年が経過し故郷の家族との関係も絶たれ、療養所が「終の住まい」になっている方が大半だったからです。
実際国は、熊本地裁の裁判の中で、「国が敗訴したら、原告になった患者は療養所から退所してもらう」という考えられない卑劣な陳述書を提出しました。
療養所の患者・元患者が大挙して手を上げ裁判に参加し、運動が広がるのを警戒して分断しようという意図は明らかでした。
熊本地裁の裁判長が、国側証人である療養所の園長に対して、「裁判を受ける権利を分かっていますか」、「国が敗訴したら療養所から原告を退所させるというのは、裁判を受ける権利を侵害することになりませんか」という厳しい補充尋問を行い、傍聴席から拍手が起きたことを今のように思い出します。
そんな複雑な感情が入所者の中に交差する難しい時期、神さんは全療協の事務局長として、粘り強く全国の療養所の意見をとりまとめ、原告団代表を務めた曽我野さんと阿吽の呼吸で裁判支援に踏み切ってくれます。
私が弁護団の大島青松園の担当だったこともあり、神さんからは色々と昔の状況をお聞きする機会がありました。
また2001年の熊本地裁全面勝訴・国による控訴断念後、基本合意に基づく厚生労働大臣との定期協議において、「在園保障」の担当になった後は、毎年の議題をとりまとめる際にも色々とアドバイスを頂いてきました。
しかし私が薬害肝炎九州弁護団の事務局長に就任し九州訴訟も佳境を迎え、「薬害肝炎訴訟に専念したい」と、全国弁護団にも無理をいって「在園保障」の担当を外してもらうことにしました。
神さんには直接ご説明しましたが、じっと私の話に耳を傾けてくれて、「うん、がんばりなよ。薬害肝炎って僕たちよりもひどい被害だと思うよ。絶対勝って患者さんを救ってあげなさい」と不平一つ言わず温かい笑顔で握手してくれました。
舌鋒するどい理論家の闘士であるとともに、そんな温かさをたたえた大きな方でした。
その後はお会いする機会もほとんどなくなってしまい、曽我野さんが2012年にお亡くなりになった時に少し話しをしたのが最後になってしまいました。
心よりご冥福をお祈りしたいと思います。
神さんの訃報にともに闘ってきた関係者から惜しむ声が相次いだ。
国家賠償を通じて交流のある徳田靖之弁護士は「ショックで現実を受け入れられない」と言葉少な。「患者の隔離という空前の人権問題に立ち向かう大黒柱で、被害者のために尽くした」とたたえた。
超党派の国会議員でつくる「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会」顧問の江田五月参院議員は「理屈だけではいかないハンセン病問題の、さまざまな意見をまとめる能力と人格を備えた方だった」と惜しんだ(5月10日付け西日本新聞)。
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