集団訴訟の近代化の扉を開いた薬害スモン訴訟~薬害フォーラムシリーズ2
薬害根絶フォーラムの福岡開催をうけて、加盟団体の訴訟について数回のシリーズで取り上げています。
第1回は薬害エイズ訴訟を取り上げましたが、第2回は薬害スモン訴訟を取り上げたいと思います。
目次
薬害スモン事件
薬害スモン事件とは、1953年に認可された整腸剤(キノホルム剤)を服用したことによって、運動障害、知覚異常等、とりわけ視力障害の神経症状などの重篤な副作用を生じさせた事件です。
「スモン」とは、Subacute Myelo-Optico-Neuropathy(亜急性・脊髄・視神経・末梢神経症)の頭文字をとって名付けられました。
下痢や腹痛といったごく軽少な症状に対して、病院の医師が処方したり、家庭の置き薬として広く使用されていた整腸剤を患者が服用したところ、思いも寄らぬ重症に陥ったのでした。
1955年頃から1969年頃にかけて次々とスモン患者が確認されました。また原因不明の奇病と報道され、多数の自殺者を産むなど全国的な社会問題になったのです。
国は1964年、厚生省に研究班を設置して研究を行い、1969年に、「スモン調査研究協議会」を設置したものの特段の対応策を採りませんでした。
ようやく国は、1970年9月8日、各都道府県知事宛にキノホルム剤販売中止の薬務局長通知を発しましたが、その間に被害が拡大した結果、被害者は1万人以上と推定されています。
薬害スモン訴訟の経緯
1971年5月、患者が東京地裁に初の提訴を行い、その後も約700名が東京地裁に提訴しました。1972年12月からは、大阪、前橋、奈良、神戸、京都、高知、広島、金沢、福岡、静岡、仙台の各地裁にも提訴しました。
こうして薬害スモン訴訟は、1981年1月時点で全国32地裁に継続し、原告患者数は約6000名に達する、当時戦後最大と言われた大型薬害集団訴訟になりました(薬害スモン全史)。
大きな争点は、因果関係と国の法的責任の有無でしたが、国・製薬企業は最後まで強く争いました。
東京地裁が1976年9月9日、「思うに前例のない訴訟は、前例のない方法によって解決されるべき」として和解勧告を行った上、1977年1月17日、和解所見と第1次和解案を提案しました。
原告弁護団が「法的責任が明確になっていない」「恒久対策抜きである」「和解金額自体低すぎる」と批判し、東京地裁は、1977年4月18日、第2次和解所見、第2次和解案を提案しました。
これに対する原告らの対応は分かれ、1977年10月29日、東京地裁で初の和解が成立する一方、1978年3月1日、金沢地裁で全国初のスモン訴訟判決が下され、原告が勝訴しました。
金沢地裁判決は、薬害スモンに関する国・製薬企業の法的責任を初めて明確にした点で大きな意義がありました。
しかし因果関係については、「ウイルスもスモンの病因であり得ると認めざるを得ない」と判断したことや、認容額について東京地裁和解額を下回るという問題点が残りました。
1978年8月3日に下された2番目の東京地裁判決は、スモンとキノホルムの因果関係を認めウイルス説を明確に否定しました。そして認容額も東京地裁和解額と同一にするなど、金沢判決の問題点を克服しました。
しかし国の法的責任については、1977年11月1日以降の責任のみを認める不十分さがまだありました。
そして1978年11月14日に3番目に言い渡された福岡地裁判決(判例時報910号33頁)は、国の法的責任を明確に認めた全面勝訴判決でした。福岡地裁判決がその後の判決の流れを決定付けました。
こうして1979年に入り、各地地裁が相次いで原告全面勝訴判決を言い渡していったのです。
1979年7月26日、「提訴ずみ原告の年内解決の実現をめざす協議に関する議事録確認書」が調印され、同年9月7日には臨時国会で薬事二法が成立しました。そしてついに、同年9月15日、原告弁護団と国・全被告会社との間において、全面解決のための「確認書」が調印されるに至り、当時「戦後最大の薬害」と言われた薬害スモン訴訟は全面解決に向かったのでした(拙著「集団訴訟実務マニュアル」241頁)。
原告ら薬害スモンの被害について、福岡地裁判決は以下のように指摘しています。
第五 おわりに-原告らの訴えるもの
以上に述べてきた種々の被害は、それぞれが個別的なもの、孤立的なものでなく、互いに密接に不可分な総体として複合して、原告患者らを包み込み、日夜休む間もなく喘ぎ苦しめている。その根源が肉体的苦痛にあることからの叫び、安全であると信頼して飲んだ薬が毒であつたことを知つた悲しみからの叫びであることに、裁判所も被告らも、よく耳を傾けなければならない。これこそが本裁判の原点であるからである。それは
第一に、「もとの体にかえせ」との叫びにみられる早期完全救済への当然の願いであり、第二に、「薬害根絶」との訴えにみられる道義性の高さである。一七番高砂佳枝は、スモンで青春をなくし、婚約者との結婚をあきらめ、六年の闘病生活を経て到達した心境を次のように述べている。「同じ患者に原田澄子さんがいます。その人が今年のスモン県民集会のときに、心の歌のひとつとして出されたものに、「こわれたる この身が役に立つという 薬害訴え 今日も街ゆく」 スモンにかかつて私の希望することを何ひとつ自分でできない、それでも私の身体でやれることがあつた。健康な人よりも誰よりも。そして、すべての人々のためになることが。私は本当に教えられました。」(〈証拠略〉)
薬害根絶という訴訟当事者の域をこえた国民的課題にどう答えるかが、今問われている(福岡地裁判決より)
薬害スモン訴訟との関わり
2002年10月、薬害C型肝炎訴訟が開始するにあたり、私は九州弁護団事務局長として、様々な団体や原告団に支援を求めました。
その中の一つに薬害スモン原告団がありました。薬害スモン九州弁護団員であった福岡県弁護士会の上田國廣弁護士(司法修習24期)に依頼して薬害スモン九州原告団を紹介してもらったのです。その中の一人が今回の薬被連の薬害フォーラムの記者レクにも同行して下さった草場さんでした。
薬害スモンは1970年代の集団訴訟ですから、薬害肝炎訴訟が福岡でも開始した2003年頃には、スモン原告の皆さんは既に高齢化していました。それでも毎回数名の方々が熱心に傍聴して、産声を上げたばかりの肝炎原告団を日に陰に励ましてくれたものです。
また薬害スモン福岡原告団は、当時、福岡市中央区のマンション一室に裁判の貴重な資料を保管していました。
私は訪問させてもらい、過去の裁判資料に目を通して肝炎訴訟に利用できるものをコピーしていきました。
その中には手書きで変色した弁護団会議の議事録、レジュメ、何度も訂正して苦心の跡がうかがえる東京行動の日程表などが、段ボール箱の中から無造作に出てきました。30年以上前の弁護士達の「生々しい苦闘の痕跡」に、私自身強く励まされたことを今でも強烈に思い出します。
さらにスモンといえば、スモン東京原告団弁護団が東京新宿に「スモン公害センター」を設立して、貴重な資料を多数保管していることも知りました。
ハンセン病違憲国賠訴訟で知己を得た薬害スモン東京弁護団だった、日本の集団訴訟の生き字引とでもいうべき大先輩の豊田誠弁護士(司法修習13期。2023年3月16日死去)に依頼して、本来貸出不可である貴重な各種資料を長期間借りた上、薬害肝炎訴訟の立証に有効利用させて頂きました。
また薬害肝炎九州弁護団の弁護士は「スモン公害センター」を訪問させて頂き、そのほかの様々な貴重な資料を閲覧・謄写もさせて頂きました(写真はスモン公害センターを訪問し資料チェックの合間に一休みする、九州弁護団の安倍弁護士、中山弁護士、後藤弁護士)。
薬害スモン訴訟の意義
それでは薬害スモン訴訟の意義とはどのような点にあるでしょうか。
まず何といっても、薬害スモン訴訟の解決をふまえて行われた薬事法の1979年改正が上げられるでしょう。
薬害スモン判決が、薬事法上、国には医薬品の安全性確保義務があると判示したことを受けて、薬事法の目的として、医薬品の有効性・安全性の確保が明記されました(薬事法1条)。
そして有効性・安全性を確保するために、承認時の規定も整備され、承認時に添付する資料が法律上明記されるほか、承認拒否事由も法定されました。
それまで行政処分として行われていた「再評価制度」も法制化され、治験に関する規定の整備、再審査制度の導入、承認取消権や販売停止・回収等被害防止措置の命令権といった現在の薬事制度の基礎が、およそ1979年改正で道筋がたったといえるのです。
次に先ほど述べたように、薬害スモン原告団弁護団が、人的・物的に様々な意味において、その後の集団訴訟に影響を与えたことが指摘できるでしょう。
薬害肝炎九州原告団弁護団はスモン原告団の法廷傍聴支援を受けるほか、スモン訴訟の貴重な資料から様々な証拠を入手することができました。私自身も事務局長として活動していく様々なヒントを、過去の弁護団活動を通して得ました。
スモン公害センターは、薬害にとどまらず、全国の大気汚染裁判、水俣病裁判、アスベスト訴訟等の公害・環境問題を支える活動を今も継続しています。
弁護団活動という視点から見ると、当時はまだ、各地弁護団が各地裁において個別に主張立証していくという状況でした。また提訴時からグループ間には激しい路線対立もあり、実際、東京地裁の和解案に対する対応も分かれました。
このように、「一つの弁護団として大きな戦略に基づいて各地地裁を闘って国に政策変更を求める」というところまでは至っていませんでしたが、最終局面では全国弁護士連絡会が開催されるなど共同歩調が取られました。
そして東西冷戦下、今では想像も付かないような政治的対立があった時代に、党派を超えた幅広い弁護士、特に被害の甚大さ・理不尽さにうたれた新人弁護士が全国で数多く集い、献身的な弁護団活動を行ったことは、その後の集団訴訟の運営にも影響を与えました。
例えば、スモンの福岡弁護団員名簿を見ると、「え、この弁護士さんが参加していたのか」とある意味、驚くような弁護士が多数名前を連ねています。党派を超えて被害回復・再発防止を目指して国に政策変更を求めていく・・そんな集団訴訟における弁護士活動の萌芽を、そこに見ることができるでしょう。
薬害エイズ訴訟が「集団訴訟を現代化した」といえるならば、薬害スモン訴訟は「集団訴訟の近代化の扉を開いた」といえるのかもしれません。
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関連文献
・「薬害スモン全史」(スモンの会全国連絡協議会編・労働旬報社)
・「薬害訴え 今日も街ゆく」(スモン訴訟福岡弁護団)
・「集団訴訟実務マニュアル」(古賀克重・日本評論社)
・「知っておきたい薬害の教訓~再発防止を願う被害者からの声」(医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団)
・「温故知新~薬害から学ぶ~スモン事件」(医薬品医療機器レギュラトリーサイエンス財団)